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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
少女と人狼_IRIS.log

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やさしい声

次にその少女を見つけたのは、三日後だった。


また同じ道だった。昼を少し過ぎたころ、籠を腕にかけて森のはしを歩いてくる。今日は昨日より明るい色の布を頭に巻いていて、風が吹くたびに裾が揺れた。足取りは軽い。何かいいことでもあったのかもしれない。


俺は前より早く気づいて、前より近くまで寄った。


それでも木立の影からは出ない。出る理由がないし、出たらたぶん終わる。人間は突然変わる。昨日は平気でも、今日は石を投げるかもしれない。昨日は笑っていても、今日は村に言いつけるかもしれない。そういうものだ。


だから見るだけにする。


少女はしばらく歩いたあと、ふいに立ち止まり、籠の中を覗いた。そして、周りを見渡す。


俺はまた身を低くした。


けれど少女は俺を探すような顔ではなかった。ただ道の脇の平たい石に腰を下ろし、籠から丸いパンを一つ取り出した。小さな声で何か歌いながら、半分に割る。片方を自分で持ち、もう片方を石の上に置いた。


「食べる?」


俺に向かって言ったのだと、少し遅れてわかった。


もちろん近づかなかった。罠かもしれない。そうでなくても、人間の食べ物を簡単に受け取るほど馬鹿ではない。


少女は返事がないのを気にしたふうもなく、置いたまま自分のぶんを食べ始めた。急がず、がつがつもせず、小さくちぎって口に運ぶ。ときどき空を見て、ときどき森を見る。俺のことを無理に探そうとはしない。


やがて食べ終わると、立ち上がって服の裾を払った。


「いらないなら、鳥が食べるかもね」


そう言って、少女は去っていった。


その背中が見えなくなってからも、俺はすぐには動かなかった。匂いを嗅ぐ。嫌な匂いはしない。妙な薬の匂いも、血の匂いも、人の大勢いる匂いもしない。ただ焼いた麦の匂いと、あの少女の匂いが少しするだけだ。


かなり迷ってから、俺は石のそばまで降りた。


パンはまだ温かかった。


口に入れてみると、柔らかくて、少し甘かった。肉のほうが好きだし、腹が膨れるのは肉だ。けれど、悪くないと思った。悪くないどころか、妙に印象に残る味だった。


人間のくれるものを食べた。


その事実が、自分の中で妙に引っかかった。


森には、もらわなくても生きていく術がある。獲って、奪って、逃げて、眠る。それで足りる。そうやってきた。これからもそうだと思っていた。


なのに、たった半分のパンで、その当たり前が少しだけ揺らいだ。


次の日も少女は来た。


その次の日も、そのまた次の日も。


毎日ではない。来ない日もある。けれど来る日はだいたい同じ時刻で、同じ道を通る。籠の中身は少しずつ違った。パンのこともあれば、林檎の切れ端のこともあったし、小さな焼き菓子のこともあった。どれも石の上に置いていく。無理に手渡そうとせず、見返りも求めない。


「今日は甘いよ」

「これはちょっと固いかも」

「昨日、雨すごかったね」

「そこ、好きなの?」


話しかける声は、いつもやさしかった。


返事を求める声ではなかったのがよかった。黙っていても責めない。出てこなくても困らない。ただ、そこに誰かがいる前提で、ひとりごとのように話す。


俺はその声を聞くために森のはしへ行くようになった。


変な話だと思う。人間を避けて生きてきたくせに、今は人間の来る時間を待っている。木の上で昼寝をしていても、日が傾き始めるとそわそわした。獲物の気配より、あの足音のほうを先に探す日まであった。


ある日、少女は石の上に座ったまま、ぽつりと言った。


「村ではね、夜更かしすると人狼に食べられるって言うの」


俺は思わず耳を動かした。


「だから小さい子、みんなすぐ寝るの。怖いから」


少女は笑った。馬鹿にする笑いではなく、昔から聞いてきた話をそのまま口にするような笑いだった。


「ほんとかな」


その問いに、俺は答えられない。


本当に食う奴はいる。少ないが、いる。人を見れば腹を鳴らす奴も、嬉しそうに追いかける奴もいる。森の奥に住む年寄り連中の中には、人間を人間とも思っていないのもいた。


けれど俺は違う。


少なくとも、違うつもりでいた。


少女は石を撫でながら、続けた。


「でも、いるなら、ちゃんと会ってみたいな」


その言葉だけで、胸の奥がどくりと鳴った。


会ってみたい。


怖いからでもなく、退治したいからでもなく、見世物みたいに珍しがるでもなく。ただ会ってみたいと、そう言った。


俺は木の影の中で、じっと少女を見た。


髪に日が透けていた。頬はやわらかそうで、目はまっすぐだった。たぶんこの子は、何も知らない。人間が人狼を見る目も、村人が森に持つ怖れも、火薬の匂いも、狩人の足音も、きっと何も知らない。


だからこんなことを言えるのだろう。


それでも、その無邪気さを醜いとは思わなかった。


むしろ俺は、その何も知らないまっすぐさに、ひどく惹かれていた。


少女は帰り際、いつものように石の上へ小さな包みを置いた。


「またね」


そのひと言を残して、森のはしを去っていく。


またね。


そんな約束みたいな言葉を、人間から向けられる日が来るとは思わなかった。


俺は石の上の包みを見つめたあと、少女の消えた道を長く見ていた。森の風が葉を鳴らす。遠くで鳥が一度鳴いた。


またね、か。


その言葉を、俺は何度も胸の中で反芻した。

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