森のはし
人間の子どもは、よく喋る。
森の近くまで来る子はとくにそうだ。きゃあきゃあ騒いで、枝を踏んで、鳥を逃がして、それでも自分たちは何も知らない顔で笑っている。見ているぶんには騒がしいだけだが、近づこうとは思わない。ああいうのはたいてい群れているし、群れている人間は余計な勇気を持つ。
けれど、その子は一人だった。
昼の終わり頃、木漏れ日の残る道を小さな籠を抱えて歩いてくる。急いでいるふうでもなく、鼻歌まじりでもなく、ただ慣れた足取りで森のはしを進んでいた。たまに立ち止まって花を見たり、落ちた枝を避けたりする。村の子どもなのに、森を怖がっていない。
変な人間だと思った。
俺は少し離れた木の陰から、その様子を見ていた。向こうは当然、気づかない。気づかれない距離は心得ている。人間に見つかるのは面倒だ。悲鳴でも上げられたら、その声だけで一日が台無しになる。
その日は風が弱かった。匂いが流れにくい。だから、いつもより少しだけ近くまで寄った。
少女は道の脇にしゃがみこみ、紫色の小さな花を見ていた。摘むでもなく、じっと見て、それから「きれい」と小さく言った。
たったそれだけのことなのに、俺は妙に覚えてしまった。
人間は役に立つか立たないか、食えるか食えないか、怖いか怖くないかで物を見るものだと思っていた。少なくとも森に来る連中はそういう顔をしている。けれどその子は、ただそこに咲いているから見ていた。きれいだから口にした。そんなふうに見えた。
そのあと少女は立ち上がり、また歩き出した。俺は少し迷ってから、木々の間を縫うように追った。
別に何をするわけでもない。ただ見ているだけだ。見失わない距離を保って、葉擦れの音に紛れて進む。少女は森の奥には入らない。端をなぞるように進み、ときどき空を見て、ときどき足元を見る。それだけなのに飽きなかった。
やがて、少女がふいに足を止めた。
俺も止まる。
少女は道の先ではなく、まっすぐこちらを見た。
見つかった、と思った。
反射的に身を低くする。逃げるべきか、そのまま動かないべきか、ほんの一瞬だけ迷う。悲鳴が来る。石が来る。そういうのを予想した。
けれど少女は、ただ首をかしげただけだった。
「いるの?」
声はおどおどしていなかった。呼びかけるような、確かめるような声だった。
俺は動かなかった。動けば、きっと終わる。
少女は少し待って、それからふっと笑った。
「なら、いいや」
そう言って、また歩き出した。
それだけだった。
追い払われもしない。騒がれもしない。怖がった顔も見せない。ただ、いるならいるでいいと言って、先に進んでいく。
俺はしばらくその場から動けなかった。
胸の奥がざわついていた。狩りの時とも、危ない獣に出くわした時とも違う。もっと落ち着かない、もっと頼りないざわつきだった。たぶん俺は、あのひと言だけで、ひどく安心してしまったのだと思う。
いるの。
なら、いいや。
それだけで、何かが少し変わった気がした。
少女が道の先で小さくなるころ、俺はようやく木の陰から出た。さっきまであの子が見ていた紫の花が、足元で揺れている。俺はしゃがみこみ、鼻先を寄せた。匂いは淡くて、よくわからない。
けれど、きれいという言葉だけは、なぜかよく残った。
その日から、俺は森のはしへ行く回数が増えた。




