見えるところだけ
朝、鏡の前に立つ。
顔色は悪くない。昨日の夜に少し泣いた気がするけど、冷やして寝たから腫れもほとんどない。下地を薄く伸ばして、目の下を明るくして、頬に少しだけ血色を足す。唇は淡い色。やりすぎない。頑張っている感じは出さない。余裕がある感じだけを置いていく。
部屋を見回す。
ベッドの上には昨日脱いだ服がぐしゃぐしゃに置かれていた。黒いワンピース、キャミソール、買ったばかりのブラウスの袋。全部まとめて端へ寄せる。スマホの画角に入る棚の上だけ整えて、そこにブランドの箱を置いた。中身はもう空っぽだけど、そんなことは分からない。もらったことにした紙袋も、さりげなく床に立てかける。
観葉植物を少しだけ前に出して、香水瓶を光の当たる位置にずらす。
完璧。
私はアパレルの仕事をしている。
そう言うと、だいたいの人は少しだけ目を丸くする。おしゃれ、華やか、都会的。そんな言葉を勝手にくっつけてくれる。実際の私は売場の隅で在庫を数えたり、客に合う顔を貼り付けたり、店長の機嫌で空気が変わる狭い職場で、毎日ぎりぎり息をしているだけだけど、「アパレル」という響きは便利だった。
私はそれに縋っている。
通勤電車の窓に映った自分を見て、少しだけ顎を上げる。
スマホが震えた。大学時代の友達のグループだ。
『今度ご飯どう?』
私は指先だけで笑う。
『ごめん、最近ほんと仕事が立て込んでて』
『アヤって相変わらず忙しそうだね〜』
『落ち着いたらまた行こ!』
それで終わる。
誰も本当に予定を合わせようとはしないし、私もその先まで踏み込ませない。忙しい女は、少し格好いい。誘いを断る理由としても、ひとりでいる理由としても、これ以上便利なものはない。
店に着くと、同僚のミホが開店準備をしていた。
「アヤさん、昨日頼んでた入力、まだですよね?」
「あ、ごめん。あとでまとめてやる」
「今日、午前中に本部へ送るやつなんですけど」
責める言い方ではなかった。むしろ気を遣っている声だった。
私は笑って、髪を耳にかけた。
「平気。そういうの慣れてるから」
慣れてなんかいない。昨日は閉店後に彼と会って、そのまま帰って、メイクも落とさずベッドに倒れただけだ。入力なんて一文字もしていない。
でも、言い方ひとつで空気は変わる。
平気。余裕。慣れてる。任せて。
そうやって口にすると、本当にそう見える時がある。
昼休憩、店の裏でスマホを開く。整えた棚の前で撮った自撮りにフィルターをかける。肌をなめらかにして、輪郭を少しだけ細くして、光を足す。
『今月もばたばた。でもちゃんと自分を大事にしたい。』
投稿して、すぐに画面を伏せる。
見なくても分かる。いいねはつく。褒める言葉もいくつか来る。みんな、見えるところしか見ない。だから私は、安心してそこだけを磨ける。
それで十分だと思っていた。
少なくとも、この時はまだ。




