選ばれる
その日は、すぐに返事をしなかった。
できなかった、の方が近い。
そんな話があるわけないと思った。
腹が減りすぎると、たまに都合のいい夢を見る。
目が覚めたら、石みたいに硬い地面の上だ。
だから、これも似たようなものかもしれないと思った。
男は急かさなかった。
「今すぐ決めろとは言わん」
「なんで俺なんだ」
「拾った財布を返したからだ」
「そんなので?」
「そんなの、で済ませられることではない」
俺は黙った。
この街じゃ、落ちてるものは拾ったやつのものだ。
弱いやつから奪っても、見つからなければ勝ちだ。
泣いても喚いても、金があるやつの方が強い。
そんな街で、返しただけで、こんなことになるのか。
正しいことをしても腹は膨れない。
さっきまで、そう思っていた。
でも今、腹の中にはまだ温かいものが残っている。
「嫌なら断っていい」
「……断ったら?」
「見送りはしよう」
「怒らないのか」
「怒る理由がない」
本当に、変な大人だと思った。
俺は窓の外を見た。
高い門の向こうに、いつもの街がある。
泥と臭いと、殴られる痛みと、野良猫と飯を奪い合う日々。
知っている場所だ。
帰れと言われたら帰れる。たぶん、まだ。
でも、ここには温かい皿があった。
傷に塗る薬があった。
俺の言葉を、途中で笑わない大人がいた。
「……俺、名前ないぞ」
「なら、考えればいい」
「礼儀も知らない」
「覚えればいい」
「失敗するかもしれない」
「最初から上手くやれる者ばかりではない」
そこまで言われると、逃げ道がなくなる。
いや、最初から逃げ道なんてなかったのかもしれない。
この街でずっと名無しのまま飢えていくか、知らない場所で別の何かになるか。
選べと言われたのは、たぶん初めてだった。
俺は拳を握った。
爪の先に、まだ泥が残っている。
「……やる」
「そうか」
「でも、役に立たなかったら追い出せ」
「その時はそうする」
「優しくないな」
「甘やかす気はない」
少しだけ笑ってしまった。
男も、ほんの少しだけ笑った気がした。
それから彼は、まるで前から決まっていたことを告げるみたいに、静かに言った。
「君、うちの使用人にならないか?」




