あたたかい皿
運ばれてきた皿から、湯気が立っていた。
湯気というのは、それだけで暴力みたいだと思う。
空腹の腹には、温かい匂いがまっすぐ刺さる。
肉の匂い。煮込まれた野菜の匂い。焼いたパンの匂い。
鼻の奥がつんとして、唾が勝手に溜まる。
「食べろ」
「いいのか」
「出したものを引っ込めるほど意地は悪くない」
俺は、すぐには手を出せなかった。
目の前にこんなにちゃんとした飯が並ぶことなんて、まずない。
手をつけたら消えるんじゃないかと思った。
「冷めるぞ」
「……食う」
最初の一口で、何も考えられなくなった。
温かい。
柔らかい。
ちゃんと味がする。
噛んだ瞬間にほどける肉も、塩気のある汁も、ふわふわした白いパンも、全部が信じられないくらいまともだった。
まともな食い物って、こんなに人を黙らせるのかと思った。
たぶん、がっついていたと思う。
自分でも恥ずかしいくらいだった。
けれど誰も笑わなかった。
皿を空にして、ようやく息をついた時、男が静かに言った。
「うまかったか」
「……うまかった」
「そうか」
それだけだった。
恩を着せるわけでもなく、哀れむわけでもなく、ただ確認するみたいに聞いてくる。
その感じが、不思議と嫌じゃなかった。
「なんで、ここまでする」
「財布を返した礼だ」
「飯だけで十分だろ」
「そうとも限らない」
男は背もたれに軽く身を預けた。
「お前は、正しいことをした。だが、この街では、正しいだけでは簡単に飢える」
「……知ってる」
「なら、飢えない場所に来る気はあるか」
意味がすぐには飲み込めなかった。
「何だそれ」
「使用人見習いだ」
「俺が?」
「字は読めるか」
「少しだけ」
「掃除は」
「やれって言われればやる」
「走るのは得意そうだ」
「追いかけられるのは慣れてる」
男はそこで少しだけ口元を緩めた。
「では十分だ」
十分なわけがないだろうと思った。
俺は名無しだ。何も持っていない。礼儀も知らないし、服だってぼろだし、屋敷のことなんて何ひとつわからない。
けれど、目の前の皿は空になっていた。
その温かさだけが、まだ腹の中に残っている。
それが、やけに怖かった。




