泥の中
追いかけっこは慣れている。
ただ、その日は腹が減っていた。
足が重い。息が切れる。
裏路地に飛び込んで、木箱を跨いで、水たまりを蹴って、それでも背後の足音は離れない。
「おい、待てよ!」
待つわけがない。
曲がり角を一つ、二つ。
洗濯物の下をくぐって、崩れかけた壁の脇を抜ける。
けれど、行き止まりにぶつかった。低い塀の向こうは他人の家だ。越えられない高さじゃないが、もたつけば追いつかれる。
振り返ると、さっきのガキが息を切らして立っていた。
ひとりじゃない。後ろに二人増えている。
最悪だと思った。
「返すんだよ」
「返してどうすんだよ。感謝でもされると思ってんのか?」
「思ってない」
「じゃあ何だよ」
「……俺がそうしたいだけだ」
言った瞬間、自分でも呆れた。
もっとましな言い方があったはずだ。
けど、腹が減ってると、言葉まで痩せる。
三人のうちひとりが前に出てきた。
殴られる、と思って身構える。
実際、殴られた。
頬の内側が切れて、鉄みたいな味が広がった。
それでも財布だけは離さなかった。
地面に転がって、泥まみれになって、蹴られても、胸に抱えたまま丸くなる。
「離せって!」
腹を蹴られた時、息が詰まって視界が白くなった。
情けない声が漏れそうになって、歯を食いしばる。
こんなもんで渡してたまるか、と思った。
正しいことをしてるんだ。
そう思っていた。
けど、その正しさは、腹も頬も守ってくれなかった。
それでも、手は離れなかった。
「おい!」
別の声が飛んできた。
低くて、通る声だった。
三人がぴたりと止まる。
俺は泥の中から顔だけ上げた。
路地の入口に、背の高い男が立っていた。
歳は三十を過ぎてるくらいだろうか。上等な上着を着ているくせに、着慣れている感じがあった。
その後ろには、従者らしい男が二人いる。
「何をしている」
「べ、別に」
「その子から離れろ」
言い方は静かなのに、逆らえない重さがあった。
三人は顔を見合わせて、舌打ちだけして逃げていった。
残ったのは、泥まみれの俺だけだ。
立ち上がろうとして、ふらつく。
男が近づいてくるのを見て、反射で後ずさった。
「取って食いやしない」
「……そういうやつほど、食う」
「面白いことを言う」
面白がるような場面じゃないだろ、と思ったが、声に出す元気はなかった。
俺は財布を差し出した。
男はそれを見て、わずかに目を細める。
「私のものだ」
「だと思った」
「中身は見たか?」
「見てない」
「なぜ返す」
その問いに、少しだけ詰まった。
なぜだろう。
正しいから。
そう言えば済むはずなのに、その言葉は急に軽く見えた。
「……返さないと、嫌だからだ」
男はしばらく俺を見ていた。
それから、小さく笑った。
「なるほど」




