表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
スラム街の悪夢_IRIS.log

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

149/258

泥の中

追いかけっこは慣れている。


ただ、その日は腹が減っていた。

足が重い。息が切れる。

裏路地に飛び込んで、木箱を跨いで、水たまりを蹴って、それでも背後の足音は離れない。


「おい、待てよ!」


待つわけがない。


曲がり角を一つ、二つ。

洗濯物の下をくぐって、崩れかけた壁の脇を抜ける。

けれど、行き止まりにぶつかった。低い塀の向こうは他人の家だ。越えられない高さじゃないが、もたつけば追いつかれる。


振り返ると、さっきのガキが息を切らして立っていた。

ひとりじゃない。後ろに二人増えている。


最悪だと思った。


「返すんだよ」

「返してどうすんだよ。感謝でもされると思ってんのか?」

「思ってない」

「じゃあ何だよ」

「……俺がそうしたいだけだ」


言った瞬間、自分でも呆れた。

もっとましな言い方があったはずだ。

けど、腹が減ってると、言葉まで痩せる。


三人のうちひとりが前に出てきた。

殴られる、と思って身構える。

実際、殴られた。


頬の内側が切れて、鉄みたいな味が広がった。

それでも財布だけは離さなかった。

地面に転がって、泥まみれになって、蹴られても、胸に抱えたまま丸くなる。


「離せって!」


腹を蹴られた時、息が詰まって視界が白くなった。

情けない声が漏れそうになって、歯を食いしばる。

こんなもんで渡してたまるか、と思った。


正しいことをしてるんだ。

そう思っていた。

けど、その正しさは、腹も頬も守ってくれなかった。


それでも、手は離れなかった。


「おい!」


別の声が飛んできた。


低くて、通る声だった。

三人がぴたりと止まる。

俺は泥の中から顔だけ上げた。


路地の入口に、背の高い男が立っていた。

歳は三十を過ぎてるくらいだろうか。上等な上着を着ているくせに、着慣れている感じがあった。

その後ろには、従者らしい男が二人いる。


「何をしている」

「べ、別に」

「その子から離れろ」


言い方は静かなのに、逆らえない重さがあった。

三人は顔を見合わせて、舌打ちだけして逃げていった。


残ったのは、泥まみれの俺だけだ。


立ち上がろうとして、ふらつく。

男が近づいてくるのを見て、反射で後ずさった。


「取って食いやしない」

「……そういうやつほど、食う」

「面白いことを言う」


面白がるような場面じゃないだろ、と思ったが、声に出す元気はなかった。


俺は財布を差し出した。

男はそれを見て、わずかに目を細める。


「私のものだ」

「だと思った」

「中身は見たか?」

「見てない」

「なぜ返す」


その問いに、少しだけ詰まった。


なぜだろう。

正しいから。

そう言えば済むはずなのに、その言葉は急に軽く見えた。


「……返さないと、嫌だからだ」


男はしばらく俺を見ていた。

それから、小さく笑った。


「なるほど」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ