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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
猫生_IRIS.log

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帰る場所

傷は少しずつ塞がっていった。


首元の痛みは鈍くなり、脇腹の重さも引いていく。前足に力が戻る。跳ぶのはまだ無理だが、部屋の中なら自由に歩けた。窓辺にも乗れるようになった。


窓の外には、見慣れた住宅街がある。


塀。電柱。狭い道。自転車。買い物帰りの人間。遠くで吠える犬。夕方の匂い。雨上がりの土。すべては前と同じなのに、少しだけ違って見えた。


もう、吾輩は外で寝ていない。


腹が減ったら、器に飯がある。水もある。寒い夜には風が当たらない。痛くても、隠れ場所を探して這い回らなくていい。女の子は毎日帰ってきて、トラ、と呼ぶ。母親は「はいはい」と笑いながら飯を用意する。父親は最初こそ遠巻きだったが、今は新聞を読みながら吾輩の頭を一撫でするくらいには慣れた。


何もかも人間の都合だ。吾輩はたまたま車の下に潜り込み、たまたま見つかり、たまたま生き残った。それだけだ。


それだけなのに、夜の冷えを思い出すと、今いる部屋のあたたかさが妙に深く身に染みる。


ある日、窓が少し開いていた。


外の匂いが流れ込む。土。草。遠くの魚屋。濡れたコンクリート。路地裏。自由の匂いだ。


吾輩は窓辺に飛び乗り、しばらく外を見た。


出ようと思えば、たぶん出られる。塀伝いに行けば、昔の寝場所にも戻れるだろう。魚屋の裏だってまだある。路地裏も、空き地も、神社の石段も消えてはいない。


それでも、前足は窓枠を越えなかった。


その代わり、後ろから小さな声がした。


「トラ」


振り向く。


女の子が立っている。寝間着姿で、少し眠そうな目をしている。だが、吾輩を見つけた途端、安心したように笑った。


「そこにいた」


まるで、いて当然みたいに言う。


吾輩は窓から降りた。女の子の足元をすり抜ける。女の子はしゃがんで、両手を伸ばした。抱かれるのはまだ少し気に食わない。だが、今日は許してやる。


小さな腕の中は、不思議とあたたかかった。


人間は正しいとか正しくないとか、いろいろ言うのだろう。野良を家に入れるのはどうだとか、汚れるとか、責任とか、最後まで飼うとか。そういうことを決めるのは、やはり人間の仕事だ。


吾輩には分からない。


ただ、腹が減った時に食べるものがあって、寒い夜に眠る場所があって、名前を呼ぶ声があって、そのたびにしっぽが勝手に揺れてしまうのなら、それはたぶん悪いことではない。


少なくとも、吾輩にとっては。


女の子が、また呼んだ。


「トラ」


吾輩は喉の奥を鳴らした。自分でも少し驚くほど、穏やかな音だった。


そして思う。


吾輩は猫である。名前はトラだ。

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