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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
猫生_IRIS.log

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知らない天井

目を覚ました時、知らない匂いがした。


薬。布。木。人間。少しだけ食べ物。どこか遠くに漂う洗濯物の匂い。雨の匂いはない。風もない。地面も硬くない。


吾輩は薄く目を開けた。


天井があった。


屋根の裏ではない。もっとちゃんとした、白っぽい天井だ。体の下にはやわらかいものが敷かれている。布団、というやつかもしれない。首を動かそうとすると、痛みが走った。脇腹も重い。だが、昨夜よりはましだった。


近くで小さな音がする。


女の子が椅子に座っていた。手に絵本のようなものを持っているが、開いているだけで読んではいない。吾輩が目を開けたのに気づくと、ぱっと立ち上がった。


「おきた」


大きな声はやめろ、と言いたかったが、それだけの元気はない。


大人たちが来る。父親らしい匂いの男と、母親らしい匂いの女だ。昨夜の匂いと同じ。心配そうな顔をしている。


人間は、こういう時にみんな眉を寄せる。面白い。


女が水を持ってくる。今度は皿ではなく、浅い器だった。吾輩の鼻先へそっと寄せる。怪しい真似はしない。ただ置くだけだ。


吾輩は少しだけ舌を伸ばして水を飲んだ。


冷たくて、うまい。


それを見て、女の子がまた嬉しそうな顔をした。単純なやつだ。水を飲んだくらいでそんなに喜ぶな。


その日から、よく分からない生活が始まった。


吾輩は狭い籠のようなものに入れられて、どこかへ運ばれた。消毒の匂いが強い場所で、知らない人間にあちこち触られ、傷を見られ、首元や腹に何かを塗られた。失礼極まりない。だが、その後は少し楽になった。たぶん、必要なことなのだろう。人間の正しさというやつかもしれないが、役に立つなら文句はない。


家に戻ると、女の子は毎日、吾輩のそばにいた。


朝は「おはよう」と言う。昼は「たべる?」と言う。夜は「おやすみ」と言う。何をそんなに話すことがあるのか知らないが、毎回ちゃんと覗き込んでくる。


吾輩は最初、触られるたびに耳を伏せた。手を伸ばされると警戒した。大人の男が近づけば逃げようとした。だが、体が思うように動かない。無理をすると傷が痛む。結局、じっとしているしかなかった。


女の子の手は小さい。あたたかい。撫で方は下手だ。耳の後ろを逆撫ですることもあるし、背を強く押しすぎることもある。だが、嫌な手ではなかった。


大人たちも、勝手に何かを押しつけてはこない。食べ物を置き、水を替え、布を新しくし、傷を見て、また離れる。ちょうどいい距離だ。賢い。


三日目には、自分で少し歩けるようになった。


四日目には、部屋の隅から隅まで行けた。


五日目には、女の子が転がした小さな紙玉を目で追ってしまった。もちろん、飛びついたりはしない。そんな子どもっぽい真似はしない。だが、尻尾が勝手に動いた。気づかれていないといい。


六日目、女の子は真剣な顔で吾輩を見つめていた。


「なまえ、いるよね」


何を言い出すのかと思った。名前などなくても困らない。吾輩は吾輩だ。


女の子はしばらく考えてから、嬉しそうに言った。


「トラ」


吾輩は片耳を動かした。


「トラ、ってどう?」


失礼な話だ。たしかに茶色い毛に縞っぽい模様はある。だが、いくら何でも単純すぎる。もっとこう、強そうな名前とか、賢そうな名前とか、あるだろう。


なのに、女の子は満足げだった。


「トラ」


もう一度呼ぶ。


その声が妙にまっすぐで、あたたかくて、変に悪くなかった。


吾輩は知らん顔をした。だが、尻尾が、ぱたりと一度揺れた。


女の子は目を輝かせる。


「いま、うごいた!」


違う。違わないが、違う。勝手に動いただけだ。


それから、女の子は何度もその名前を呼んだ。


朝も、昼も、夕方も。水を替える時も、ごはんを置く時も、学校から帰ってきた時も、眠そうな声の時も。トラ。トラ。トラ。


そのたびに、吾輩の耳は少しだけ向く。尻尾も、つい揺れる。


困ったことだ。


名前などなくても生きていけると思っていたのに、呼ばれるというのは、案外悪くない。

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