雨の夜
決着は、あっけなく来た。
夕方だった。空は薄暗く、風が強い。魚屋の裏には今日は何もなく、空腹のまま吾輩は住宅街の外れまで歩いていた。いつもの塀を曲がったところで、匂いがした。
あいつだ。
気づいた時には、もう前にいた。
大柄な雄猫は、道を塞ぐように立っていた。逃げ道は横の細い隙間くらいしかない。背後は塀。面倒な場所だ。
吾輩は低く唸った。相手も喉を鳴らす。毛が逆立つ。空気が尖る。
先に飛んできたのは向こうだった。
重い。速い。いつもより本気だ。
避け切れず、肩から地面に転がる。すぐ立ち上がって噛みつこうとしたが、腹を蹴られ、息が詰まった。爪を振るい、相手の顔を掠める。血の匂いがした。だが、こちらも首元を噛まれた。熱い痛みが走る。
何度も離れ、何度もぶつかった。
途中から、もうどちらが先に仕掛けたかも分からなかった。ただ、やめたら終わる気がして、やめられなかった。路地裏の王だとか、縄張りだとか、そんなものはきっと大した意味はない。それでも、譲った瞬間に全部を持っていかれる気がした。
最後に相手の体当たりをまともに受けて、吾輩は横倒しになった。背中が石にぶつかる。視界が白く弾けた。
立たなければと思った。
だが、足がうまく動かない。
相手はしばらくこちらを見下ろしていた。息が荒い。片目の上から血を流している。だが、まだ立っている。
やがて、鼻を鳴らして去っていった。
勝ったつもりなのだろう。気に食わない。
吾輩は歯を剥いたが、うまく声にならなかった。喉が焼けるように痛い。前足を動かすたび、脇腹の奥がずきずきする。首筋も熱い。たぶん、かなりまずい。
空から一粒、冷たいものが落ちてきた。
また雨か。
冗談じゃない。
吾輩はふらつきながら立ち上がった。ここにいたら濡れる。濡れたらもっと冷える。冷えたら終わる。そんなことは猫でなくても分かる。
足を引きずって歩く。どこへ向かっているのか、自分でもよく分からなかった。匂いだけを頼りに、少しでも知っている場所へ行く。住宅街。塀。物置。庭木。濡れた土。車の油。人間の夕飯。
あの家だ、と思ったのは、車の匂いでだった。
女の子の家の車。
吾輩はほとんど転がり込むようにして、その下へ潜り込んだ。
暗い。狭い。冷たい。だが、雨はまだ直接当たらない。息が苦しい。視界がゆれる。鼻先の地面に、自分の血の匂いが濃く混じっていた。
やばいな、と思う。
思うが、どうにもならない。
その時、外で小さな声がした。
「おかあさん」
靴音が近づく。しゃがむ気配。吾輩は唸ろうとしたが、かすれた音しか出ない。
女の子の顔が覗いた。丸い目が大きく見開かれる。次の瞬間、家の中へ駆けていく足音。別の、重い足音。大人の声がいくつも聞こえる。
人間が集まってくる。
面倒だ。だが、逃げる力もない。
車の下へ差し込まれた明かりが眩しい。大人たちの匂いが近づく。困った匂い。焦った匂い。洗剤と石鹸と布の匂い。夕飯の匂いまで混ざっている。
「いた」
「だいじょうぶかな」
「タオル持ってきて」
女の子の声がする。近い。泣きそうな匂いもした。
吾輩は目を細めた。
泣くな。まだ死ぬと決まったわけじゃない。
そう思ったところで、やわらかい布が体の下に差し込まれた。持ち上げられる。痛い。たまらず爪を立てようとしたが、前足に力が入らない。
女の子がすぐ横で、「がんばって」と言った。
何を勝手に、と言い返したかった。
けれど、その声は妙にあたたかかった。




