路地裏の王
朝は、鼻先に届く匂いで始まる。
湿った土の匂い。昨夜の雨が乾き切っていないアスファルトの匂い。どこかの家から流れてくる焼き魚の匂い。生ごみの袋の匂い。遠くの草むらに潜んだ鼠の匂い。車の下で冷えた鉄の匂い。人間の足音の匂いまで、朝には混ざっている気がする。
吾輩は古い塀の上で、大きく伸びをした。茶色い毛はところどころ汚れていたが、別に構わない。毛並みが少々悪かろうが、寝ぐせが立っていようが、ここいらで吾輩に文句を言える猫はいない。少なくとも、そう思っている。
住宅街は悪くない。どこにでも人間がいて、どこにでも匂いがある。小さな庭もあれば、物置もある。日向のいい塀もあるし、雨を凌げる場所もある。運がよければ、魚の骨だって落ちている。
ただし、良い場所には良い場所なりの決まりがある。
ここは誰の縄張りか。どの家の庭まで入っていいか。どの猫には睨みを利かせておくべきか。どの犬は本当に噛むのか。どの人間は石を投げるのか。そういうことを知らないと、生きるのは難しい。
吾輩は知っている。だから生きている。
塀の上から飛び降りると、朝の冷えた空気が腹に触れた。少し腹が減っていた。昨夜はろくに食えなかったからだ。魚屋の裏に回れば何かあるかもしれない。そう思って歩き出したところで、向こうから見慣れた影が来た。
大柄な雄猫だった。
毛は黒に近い灰色で、片耳の先が欠けている。肩幅が妙に広く、歩き方まで偉そうだ。気に食わない。最初に見た時からずっと、気に食わない。
向こうもそう思っているのだろう。目が合った途端、低く喉を鳴らした。
吾輩も立ち止まり、背を少しだけ丸めた。毛が逆立つ。尻尾が膨らむ。だが、まだ飛びかからない。朝から面倒は御免だ。
相手もすぐには来ない。ただ、ゆっくりと道の真ん中で立ち止まり、吾輩を見た。
ここは俺の場所だ、と言いたいのだろう。
冗談ではない。住宅街の真ん中の路地一本まで、お前のものなわけがあるか。勝手に決めるな。そういう顔で見返してやると、相手は鼻先に皺を寄せた。
しばらく睨み合い、先に動いたのは向こうだった。つまらなそうに顔を逸らして、別の道へ曲がっていく。
吾輩は鼻を鳴らした。
賢い判断だ。朝から吾輩に喧嘩を売って、ただで済むと思うな。
そう思いながら歩き出したが、実のところ、少しだけ肩の力を抜いた。あいつは大きい。正面からぶつかれば面倒になる。今日のところは互いに見逃した、それだけだ。
魚屋の裏には、小さな頭だけが残った魚が落ちていた。人間は本当に無駄が多い。まだこんなに食えるところがあるのに、ぽいと捨てる。吾輩はありがたくいただいた。
腹が少し満ちると、眠気が来る。
昼前の日差しはあたたかく、古い家の庭先にはちょうどいい縁側があった。もちろん人間の家だから勝手に使うのはよくないのだろうが、そういうのは人間が気にすることだ。吾輩には関係ない。
丸くなって目を閉じる。耳だけは立てたままだ。車の音、子どもの声、自転車の走る音、遠くで吠える犬。住宅街は騒がしいが、その騒がしさは嫌いじゃない。生き物の気配があるところは、案外あたたかい。
目が覚めると、夕方が近かった。
どこかの家の前で、小さな女の子がしゃがんでいた。白い帽子をかぶり、片手に赤い花のついたゴムを握っている。何をしているのかと思えば、蟻の列を見ていた。
人間の子どもは変だ。あんな小さいものをじっと見て、飽きないのだろうか。
吾輩が通り過ぎると、女の子が顔を上げた。丸い目が合う。吾輩は立ち止まらず、そのまま歩く。子どもは急に追いかけてきたり、変な声を出したりするから油断ならない。
けれど、その子は追いかけてこなかった。ただ、少しだけ首を傾げて、吾輩を見ていた。
その時は、それだけだった。




