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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
機械仕掛けの法廷_IRIS.log

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判決の前夜

 裁判三日目には、法廷の空気はほとんど完成していた。


 最初に抱かれた疑いが証言によって補強され、補強された印象がさらに次の証言を“もっともらしく”聞かせる。そうして一度できた流れは、簡単には変わらない。私は記録席に座りながら、そのことを冷静に理解していた。


 理解していたし、それを異常だとも思わなかった。


 裁判とは、元々そういうものだ。白紙から始まるとはいえ、事件そのものが人の感情を強く動かす以上、完全な中立など最初から存在しない。だからこそ手続きを重ね、証拠と証言で整えていく。その整い方に偏りがあるなら、それもまた現実だと私は思っていた。


 この日の審理は主に締めへ向かうものだった。新しい決定打が出るというより、それまで並べられてきた材料の位置を確かめ、どこまで裁判所が認められるかを詰めていく。そのため、証人も少なく、言葉は前日までより整理されていた。


 最初に行われたのは、現場周辺の見取り図や時刻の整理だった。


 被害者一家の家。

 洗濯場。

 解体場。

 裏手の道。

 夜に人影が見えたという位置。

 被告人の住まいから家までの距離。


 地図にされると、それはひどく分かりやすく見えた。近いのだ。近く、逃げやすく、目撃されても不思議ではない距離にある。しかも近隣との関係は悪かった。殺意と機会、その両方が無理なく並んでしまう。


「被告人に犯行は可能であった」


 検察官のその一文は、地図と共に示されることで強い説得力を帯びた。


 弁護側はなおも反論する。


「可能であることと、実際に行ったことは違います」


 その通りだ、と私は思った。


 だが同時に、違うだけでしかないとも感じた。法廷にいる者たちの多くはもう、“可能”を“おそらく”に変えて受け取り始めている。おそらくが続けば、やがて確信になる。確信に明確な形を与えるのが判決なのだ。


 被告人バルドはこの日も変わらず、必要最低限の言葉しか口にしなかった。自分から助かろうとするような熱がない。弁護人が説明を促しても、短く、粗い。


「被害者一家を殺していないのですね」


「やってねぇ」


「恨みはなかった」


「うるせぇとは思ってた」


「ですが殺すほどではない」


「そうだ」


「事件の夜、どこにいたか」


「家だ」


「それを見た者はいない」


「いねぇ」


 この男は、自分の否認を強く見せることが恐ろしく下手だった。


 私は彼の顔を盗み見る。怒っているのか、諦めているのか、何も考えていないのか判然としない。目つきが悪いというだけで損をしている人間は確かにいる。だがそれにしても、ここまで裁判の場に適さない男も珍しかった。


 もし彼が涙ながらに訴えれば、少しは傍聴席の空気も変わるかもしれない。もし被害者一家への同情を見せれば、まだ人間らしさが残る。だが彼はそれをしない。できないのかもしれない。けれど法廷では、できないことがそのまま不利になる。


 昼を過ぎたころ、検察側の論告が始まった。


 私は背筋を伸ばす。ここからは、散らばった断片が一つの論理に編み直される時間だ。判決記録補佐として、最も神経を使う部分でもある。


「被告人は、被害者一家と継続的に諍いを起こしていた」

「粗暴な性格であり、近隣から恐れられていた」

「犯行現場付近で目撃されうる位置関係にあった」

「凶器の特定には至らなかったが、日常的に刃物と血を扱う職にあった」

「犯行当夜に自身の所在を裏づける者がいない」

「そして何より、被告人自身の供述には説得力が乏しい」


 その一つ一つは、私が数日かけて記録してきた内容そのものだった。新しいことは言っていない。だが、順序立てられて読み上げられると、それはもう一つの完成した物語に見えた。


 被害者は善良な一家。

 被告人は孤立した粗暴な男。

 小さな諍いが積もり、ある夜ついに破裂した。


 無理のない筋書きだ。


 あまりにも無理がなさすぎて、私は記録を取りながら、自分の中で何かが静かに沈んでいくのを感じていた。迷いのようなものが底へ沈み、代わりに“そうなのだろう”という重さだけが残っていく。


 弁護側の弁論は、それに抗うように、繰り返し曖昧さを指摘した。


「凶器は見つかっていない」

「直接の目撃証言はない」

「被告人を犯人と断定する証拠はない」

「証言の多くは印象や推測を含む」

「被告人が不器用で愛想がないことは、犯行の証明にはならない」


 それもまた正しい。


 だが、私は胸の内でこうも思ってしまっていた。


 正しい。だが弱い。


 法廷で勝つ言葉と、理屈として正しい言葉は必ずしも同じではない。弁護側の言葉はきれいだったが、きれいすぎた。事件の血の臭い、被害者一家の惨たらしさ、町の恐怖、被告人の見た目と態度、そういう生々しいものを押し返す力が足りない。


 人は理屈より先に印象で動く。だからこそ私は制度を信じてきたのに、その制度の内側で動いているのが人である以上、その限界からは逃げられない。


 休廷後、判事補の一人が控室で小さく漏らした。


「弁護は苦しいな」


 私は返事をしなかった。補佐の立場で口を挟むべきではないし、自分でもまだ言葉にしたくなかったからだ。


 だが、その沈黙自体がもう答えに近かった。


 夕方には最終の手続きが終わり、判決は翌日に言い渡されることが告げられた。傍聴席がざわめき、誰もが明日の重さを感じていた。被害者遺族側の者は俯き、何人かはすでに泣いていた。被告人は立ち上がり、連れて行かれる際にも特別な反応を見せなかった。


 私はその背中を見送った。


 広い背。重い足取り。縄に繋がれていなくても、あの男はどこへも逃げないように見えた。逃げられないことを、もう知っている人間の背中だった。


 執務室へ戻ると、私は記録束を整え、判決文の下書きに備えた要点の確認に入った。もちろん最終の文面は上が決める。だが補佐として、どの証言をどこに置けば論理が滑らかにつながるか、整理しておく必要がある。


 証言の信用性。

 近隣関係。

 犯行機会。

 職業上の刃物使用。

 供述の不自然さ。

 反証の弱さ。


 書き出せば書き出すほど、道は一つに見えた。


 私は机の上の紙を見つめながら、初めて小さく息を吐いた。疲れているのだと思った。三日間、事件の記録ばかりに向き合っているのだから当然だ。だが疲労だけではない、もっと言いようのないものが胸の奥に沈んでいた。


 私はオカルトが嫌いだ。見えないものや曖昧なものに意味を見出すのは好きではない。目に見えず、証明できず、ただ人を惑わせるものは裁かれるべき場に不要だと思っている。


 なのに今この机の前で私を重くしているのは、証明しきれない違和ではなく、むしろ“整いすぎている”という感覚だった。


 整いすぎている。


 そう思った瞬間、私は手を止めた。


 整っていることは悪くない。複数の証言が矛盾せず、事実関係が一方向を向いているなら、それは制度が正しく機能している証とも言える。なのに、なぜそんな言葉が浮かぶのか。


 私はすぐにその考えを打ち消した。


 感傷だ。長く事件を見すぎたせいで、どこかに人間味を探したくなっているだけだ。被告人が黙りすぎるから、こちらが勝手に余白を作っている。法は余白で動いてはならない。あるものだけで判断しなければならない。


 私はもう一度、証言要旨を読み直した。


 被害者側の訴えには一貫性がある。

 近隣証言にも大きな齟齬はない。

 被告人に有利な明確な物証はない。

 否認はしているが、具体性に欠ける。


 やはり、結論は同じ場所へ落ちる。


 夜も更けたころ、私は執務室を出た。役所の石造りの廊下は冷え、足音が小さく長く響く。外へ出ると、風が乾いていた。町は昼間より静かで、遠くの灯りが点々と滲んで見える。


 私は帰り道で、事件のあった家のある方角をなんとなく見た。ここからではもちろん見えない。ただ暗闇があるだけだ。それでもあの家には、もう誰も帰らない。父も母も、幼い娘も息子も。そこに残ったものを、私たちは記録と判決に変えようとしている。


 それが制度だ。

 それが正しさだ。

 そうでなければ社会は回らない。


 私は何度も心の中でそう繰り返した。


 帰宅しても、机に向かった時と同じように、頭の中では証言が並び直されていた。粗暴。孤立。諍い。機会。所在不明。否認の弱さ。どれも一つなら決定打ではない。けれど、これだけ重なれば十分ではないか。


 十分だ、と私は自分に言い聞かせた。


 それでも眠る直前、不意に思い出したのは被告人の最後の横顔だった。怒りでも泣きでもなく、ただ何かを諦めたようにも見えた顔。あれを無念と呼ぶのか、鈍さと呼ぶのか、私にはまだ分からなかった。


 翌日、判決が下る。


 おそらく、もう覆らない。


 そう理解しながら布団に入り、目を閉じた時、私の中には確信と、言葉にならないわずかなざらつきが同じ重さで残っていた。

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