本当の悪者
夜は親切だ。
人の顔が昼より曖昧で、町の汚れも少しは隠してくれる。淡い月の光は、何もかもを綺麗にはしないが、見えすぎることもない。舞台にはちょうどいい。
俺は机の前に座り、お面を見ていた。
痩せた顔。乾いた喉。前より細くなった指。鏡の中の俺は、少し前から他人みたいだった。けれど、お面を被ると落ち着いた。いつもの重み。いつもの視界。いつもの笑った顔。
外へ出る。
通りにはまだ人がいる。帰りの遅い職人、店じまいをする商人、夜風に当たりに出た女、走り回る子ども。皆それぞれに用事があって、俺なんかを主役にはしない。
だから俺が主役になるしかない。
広場の端まで歩き、よく通る声で叫ぶ。
「悪者が出たぞー!」
何人かが振り向いた。だが、顔に浮かんだのはいつもの、うんざりした色だけだった。
「ああ、またお前か」
「今はやめろよ」
「帰れ、ジル」
帰れ。
そうか。
俺はお面の下で、少しだけ笑った気がした。いや、笑っていたのは最初からこっちじゃない。笑っているのはいつだって、お面の方だった。
「悪者が出たぞ」
今度は少し静かに言った。
誰も本気にしない。
だから俺は、短い刃を抜いた。
その動きさえ、最初の一瞬は芝居に見えたらしい。近くにいた男は顔をしかめただけで、避けもしなかった。女は呆れた目で見ていた。子どもは半歩だけ後ろへ下がった。
そして、ようやく悲鳴が上がった。
血の色が石畳に落ちて、月の光の中ではやけに黒く見えた。遅れて広場の空気が裂ける。叫び声、駆ける足音、引きつった息。
俺は何も言わなかった。
説明も、弁解も、いつもの大芝居も、もういらない。
だってこれが本当だからだ。
ずっと嘘つきだった俺が、最後に一度だけ本当のことをした。
広場の向こうで、誰かが震える声で言った。
「悪者だ」
その言葉は、俺が今まで吐いてきたどの嘘より、ずっとはっきり届いた。
淡い月光の下で、笑っているお面だけがやけに明るく見えた。




