重逢
病院へ行くと決めたのは、たぶん衝動だった。
でも、思いつきじゃなかった。
ずっと避けていた場所に、ようやく名前をつけただけだったのかもしれない。
朝、母さんに言った。
「私も行く」
母さんは少し驚いた顔をした。
けれど、止めなかった。
ただ、「そう」とだけ言って、小さく頷いた。
病院の空気は苦手だ。
白くて、静かで、消毒液の匂いがして、歩く人の足音まで小さく感じる。何かを大きな声で言ってはいけない場所みたいで、息をするのまで気をつけてしまう。
母さんの後ろを歩きながら、私は自分の手を握っていた。
冷たかった。
部屋の前で、母さんが一度立ち止まった。
「無理しなくていいからね」
そう言われて、私は少しだけ腹が立った。
ここまで来て、無理しないなんてできるわけがない。
「うん」
でも、口から出たのはそれだけだった。
扉が開く。
そこに、お姉ちゃんがいた。
眠っていた。
目を閉じて、静かに横になっている。肌はきれいで、顔色も思ったほど悪くない。ただ、静かすぎた。あまりにも静かで、呼吸の上下だけが、ここにいる証拠みたいだった。
私はその場で動けなくなった。
ああ、と思う。
そういうことだったんだ。
死んではいない。
でも、起きてもいない。
遠くへ行ったわけじゃないのに、手が届かなかったのは、こういう意味だったんだ。
母さんが何か説明していた気がする。状態がどうとか、今日も変わらないとか。けれど、その時の私はほとんど聞いていなかった。
ただ、お姉ちゃんの顔を見ていた。
夢の中で会っていた顔と、同じだった。
少しだけ違うところもあった。夢のお姉ちゃんの方が、ずっと軽かった。ここに横たわるお姉ちゃんの方が、重くて、現実で、触れたら消えない気がした。
ベッドのそばへ行く。
手を伸ばして、そっと指先に触れる。
あたたかかった。
「お姉ちゃん」
声が、思ったより小さく出た。
泣きそうだったけど、泣かなかった。
「来たよ」
それだけ言う。
「会いに来た」
夢の中で言えなかった言葉を、やっと言えた気がした。
私は椅子に座って、しばらく話した。
学校のこと。最近のこと。星を見た日のこと。どうでもいいようなことばかり。夢の中で話したことと重なっているものもあった。もしかしたら、あの時点でお姉ちゃんには全部届いていたのかもしれないと思う。
「また来るね」
最後にそう言って、もう一度手を握った。
その手は、ちゃんとここにあった。
帰る途中、待合の椅子で少しだけうとうとしてしまった。
ほんの短い眠りだったと思う。
目を開ける前に、気配で分かった。
お姉ちゃんがいる。
IRISもいる。
あの曖昧な場所だった。
白くて静かで、夢みたいな場所。
「来てくれたね」
お姉ちゃんが笑う。
「うん」
「ありがとう」
「ううん」
何を言えばいいのか分からなくて、それしか言えなかった。
少し離れたところに立つIRISを見た。
「……本当に会えてたんだ」
私が言うと、IRISは静かにこちらを見た。
「ええ」
「ずっと?」
「必要なだけ」
その答えは、よく分かるようでよく分からなかった。
でも、もうそれでよかった。
私はもう一度お姉ちゃんを見た。
ここにいるお姉ちゃんと、病室で眠っているお姉ちゃんが、ちゃんと同じところにつながっていると分かったからだ。
「また来る」
私は言った。
「今度は、ちゃんと起きてる時にも会いたい」
「うん」
お姉ちゃんは微笑んだ。
「待ってる」
その言葉を最後に、景色が少しずつ遠ざかっていく。
目を開けると、病院の待合だった。
窓の向こうの空が白かった。
朝なのか、夕方なのか、一瞬分からなくなるくらい、世界が薄く見えた。
でも、胸の中だけは不思議と静かだった。
私は立ち上がる。
そして、もう一度だけ病室の方を振り返った。




