第9話 褒め言葉が痛いのは、なぜ
翌朝、ヴィクトル・ノヴァルティス公爵は再び応接間にいた。
昨日と同じ椅子。昨日と同じ、冷えた静けさ。違うのは、テーブルの上に書面が1枚追加されていることだけだった。
侍女が「閣下がお待ちです」と告げに来たとき、私は自室でまだ靴紐を結んでいた。早すぎる。昨日の面会規定では、午後からのはずだった。それなのに、朝の鐘が響く前に、彼は来ていた。
バルトロメオから後で聞いた話によれば、公爵は夜明け前に到着したのだという。宿の馬車ではなく、正式な紋章入りの馬車で。しかも「急かすつもりはない、令嬢がご用意できたら」と告げて、そのまま応接間で書類を広げ始めたらしかった。
急かすつもりがない人間が、夜明けに来る。
その矛盾を、私はまだうまく整理できていなかった。
「急かす気はない、と伝えてください」
侍女がいなくなってから、私はもう一度靴紐を結び直した。別に解けていたわけではなかった。ただ、手を動かしていないと、落ち着かなかった。
応接間の扉を開けると、公爵はソファの背にゆったりともたれ、手の中の書類へ視線を落としていた。こちらの気配に気づいても、慌てる素振りは一切なかった。
「おはようございます」
「ああ」
短い。挨拶を返すというより、存在を確認する音だった。
バルトロメオが茶を置いて下がりかけたとき、公爵が口を開いた。
「お読みください」
テーブルの上の1枚が、私へ向いた。紙を手に取る。指が、わずかに冷たかった。
1行目に目が滑る。待遇、権限、人員配置。帝国宮廷文書官長代理という肩書き。月次報酬は、元の王宮職位の3倍を超えていた。住居の手配あり。業務内容の確定は赴任後30日以内。身辺の安全については別途保護誓約を締結する、という一文まで添えられていた。
喉が鳴りそうになるのを、音を立てずに飲み込んだ。
「……過分に存じます」
「適正です」
間を置かず、公爵が言った。声に圧はなかった。ただ、事実を置くような口調だった。
「あなたが5年かけて整備した魔法錠の設計は、帝国の文書館規格を2世代先取りしています。それを過分と呼ぶなら、こちらの評価基準が間違っている」
私は紙から目を上げた。灰の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。値踏みでも、試しでもない。ただ、そこにある事実を指す目だった。
「……ただの書庫番ですわ、私は」
言い訳のように出てしまった言葉を、自分で少し恥じた。それでも引っ込めることができなかった。
「ただの書庫番が、独自の魔法錠を設計しますか」
公爵の言葉は短かった。それだけだった。
それだけなのに、胸の奥で何かが痛んだ。痛みの形が分からなかった。嬉しいのでも悲しいのでもなく、ただ、どこかが締め付けられるような感覚だった。
「……買いかぶりですわ」
声が思ったよりかすれた。
彼は否定しなかった。かといって押しもしなかった。ただ、銀縁の眼鏡越しに私をしばらく見て、それからゆっくりと茶碗を持ち上げた。
沈黙が落ちる。
私は視線を窓へ逃がした。庭の木が風に揺れている。葉の裏側が白く光っていた。
――不要。
瞼の裏に、赤い2文字が戻ってきた。何度目だろう。斜めに走った赤い字は、いつも短く、いつも同じ形をしていた。5年間、上申書を出すたびに戻ってくる却下印。書いた人間は一度も、なぜ不要なのかを説明しなかった。
だから私は、褒め言葉を受け取る場所を、もう持っていない。
評価が来るたびに、まず身構えてしまう。次に何が来るかを先に読もうとする。この好条件の後に何が足されるのか。いつ「やはり鍵だけでいい」と言われるのか。本当の評価など、5年間一度もなかったから、受け取り方を忘れた。
「……4番の条文なのですが」
口を開いたのは、自分でも少し驚いた。
「業務終了時刻の定めが、ありません」
「追記します。何刻がよいですか」
即答だった。私は手の中の紙を1度だけ見て、公爵を見た。
「……定時を守る文化が、帝国文書館にありますか」
「今から作ります」
その言葉の意味を、私はすぐには飲み込めなかった。
今から作る。制度として。私のために。
赤字の「不要」を頭の中に呼び戻してみた。比べてみようとして、うまくいかなかった。形が違いすぎた。あの赤は、言葉の代わりに切り捨てを刻む字だった。今この人の言葉は、制度を動かす起点になっている。どこかが、根本から違った。
「……少し、考えさせてください」
私が言うと、公爵はうなずいた。反論も、期限の念押しもしなかった。
「明後日まで待ちます」
その短さが、また不思議と胸に刺さった。
圧で押すつもりなら、昨日の段階で来ていた。条件で崩すつもりなら、今この紙を指さして迫ればいい。けれど彼は、何もしなかった。ただ待った。まるで、こちらが自分で歩いてくるまで動かない気でいるかのように。
その待つという選択が、不意に私の動揺を呼んだ。
押されていれば、抵抗できた。それなのに、空白を置かれると、足元が妙に揺れる気がした。
そのとき、足元に温かいものが当たった。
見れば、伯爵家の白猫が音もなく部屋に入ってきていた。エプロンをつけた侍女が慌てて追いかけてくる気配がしたが、猫はそれより先に公爵の膝へ、当たり前の顔で前脚を載せた。
「……っ、申し訳ありません、閣下、今すぐ」
「構わない」
公爵は短く言って、白猫を膝から落とす気配すら見せなかった。首を少し傾けて猫と視線を合わせた。猫は満足げに目を細め、もう1段上がって完全に膝の上へ収まった。
帝国随一の外交統括が、伯爵家の猫に占領されていた。
笑ってはいけないと分かっていた。けれど、口の端が微かに動いたのを止められなかった。
帰り際、公爵が膝の白猫をゆっくりと横の椅子へ移した。猫はしばらく膝の跡を前脚で押してから、納得いかなそうに鼻を鳴らした。
扉が閉まった後、私はひとり、暖炉の火を眺めた。
評価が痛いのは知っていた。でも、待たれることがこれほど落ち着かないとは思わなかった。
(あの人は、なぜ――あれほど精確に言語化できるのだろう)
5年分の「不要」を知っている人間は、受け取り方まで詰まってしまう。それなのに彼は、傷の場所を探るように、ではなく、ただ事実だけを置いていく。その差が、どこから来るのか。
答えは、まだ見えなかった。
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