第8話 条約より先に会うべき人
猫が膝から逃げたのは、使用人が廊下を走り始めた音のせいだった。
実家の書斎はいつも静かで、外からは風が運んでくる土の匂いしかしない。王宮にいた頃には忘れていた種類の静けさだ。本の頁を捲る手を止め、私は耳を澄ました。
足音の速さが、ただ事ではなかった。
「お、お嬢様——! 玄関に、お客様が……!」
扉を開けた使用人の顔が、蒼褪めている。いや、正確には蒼褪めながら興奮していた。その組み合わせが、私に嫌な予感を走らせた。
王宮から迎えが来たのか、と一瞬思った。だが、あの方向から追っ手を寄越すとしても、まだ3日しか経っていない。
「——アルヴェスト帝国の、ノヴァルティス公爵閣下でございます」
使用人が絞り出すように告げた。
本を閉じた。
玄関の石段に出ると、黒い旅装の長身の男が立っていた。
濃灰色の髪を後ろに流し、銀縁眼鏡の奥で灰色の瞳が静かにこちらを見ている。帝国式の仕立ての上着は旅の埃を感じさせながらも、まったく崩れていなかった。
その人物の後ろには同色の紋章が入った馬車が2台。整列した従者が数名。どう見ても田舎の伯爵邸に似つかわしくない。
相手はこちらを見て、完璧な礼をした。
「初めまして——いえ」
低く、静かな声だった。
「初めまして、と申し上げるのは正確ではありませんね。3年間、照会の件でお世話になっておりました。ノヴァルティスです」
……照会。
その言葉が、記憶の中で繋がった。
「貴国からの照会窓口を、私が担当しておりました」
「ええ。おかげで帝国の外交実務は大変助かりました」
私はその人の顔を、今度は改めて見た。ヴィクトル・ノヴァルティス。帝国の外交と諜報を束ねる公爵。大陸最強と呼ばれる国の交渉官。
この人から届く照会文は、常に質が違った。問いの精度が高く、関連条文まで自分で調べた上で送ってくる。返書を書くのが手間である代わりに、やり応えがあった。ただ、頻度が不自然に多かった。月に2度、多い月は3度。業務上の必要があるとは思えなかった。
「……照会の頻度は、少々不自然でしたけれど」
口に出してから、しまったと思った。先方に失礼だ。しかし目の前の男は、眼鏡の縁に指を触れながら、静かに答えた。
「それについては、後ほど申し上げます」
単刀直入に、と彼は続けた。
「アルヴェスト帝国の宮廷文書官長として、あなたに来ていただきたいのです」
書斎に案内した後、私は自分が返事を出せないでいる理由に気づいた。
条約のためだ、と思っていた。禁書庫が開かないなら、開ける鍵を連れてくる。合理的な判断だ。帝国の公爵が採る手段として、何もおかしくない。
だから、その後の言葉が予測の外から来た。
「あなたが5年間で構築した管理体制は、大陸でも類を見ないものです。温湿度記録、魔法錠の独自設計、照会対応の精度——どれも、帝国の現状を大幅に上回る」
「……それは、買いかぶりです。私はただ必要なことを——」
「ただの書庫番が、一人で独立した魔法錠を設計しますか」
声は静かだったが、反論を遮った。
「ただの書庫番が、3年間一度の誤りもなく外交文書の照会に応じ続けますか。文書の劣化を10年単位で予測し、必要とあれば頼まれていない補足資料を作成して送ってきますか」
——1度だけ、あった。条約解釈に齟齬を発見して、先方が頼む前に資料を作って同封した。
あれが届いていたとは知らなかった。
喉の奥が、じわりと熱くなった。5年間、誰にも言われなかった言葉を、この人は初対面で並べている。受け取り方が分からなかった。褒め言葉というものは、毎回こんなに痛いのか。
「……王宮は、そうは評価してくれませんでしたが」
「知っています」
ヴィクトルは眼鏡を外した。灰色の瞳が、まっすぐこちらを向いている。交渉の仮面が一枚、外れたような気がした。
「あなたの返書を受け取るたびに思っていました。この国は、あなたの価値を何一つ理解していない。——それは、ずっと前から分かっていました」
沈黙が落ちた。
私は台帳を持っていないのに、指先が無意識に何かをなぞろうとしていた。手持ち無沙汰を誤魔化すように、膝の上で手を重ねた。
「……条約の件は」
「それも含めて、あなたに来ていただければ解決します。ですが——」
ヴィクトルは少し間を置いた。
「条約は後日でも交渉できる。あなたに会う方が、先でした」
私はその言葉を、すぐには理解できなかった。
条約の期限は残り6日のはずだ。それを差し置いて、条約より先に会うべき人、と——この人は今、そう言ったのか。
「……それは、どういう意味でしょう」
「額面通りの意味です。3年間、照会を出し続けた理由を、直接お伝えしたかった」
眼鏡を、今度はゆっくりと掛け直した。交渉の顔が、また戻る。
けれどその前の一瞬、灰色の瞳がわずかに揺れたのを、私は見てしまった。
夕刻、ヴィクトルが馬車へ戻る際に、側近の男が小声で何かを耳打ちするのが見えた。側近の手には、分厚い書類の束があった。
束の上に、見覚えのある紙質の封書が幾枚も挟まっていた。
王宮の管理官宛、帝国公爵家の印章。
——照会文だ。しかも、かなりの枚数が。
「閣下、これは全部……」
私の呟きに、側近が一瞬ぎょっとした顔をして、束を背後に隠した。
手遅れだった。
ヴィクトルは側近の方を一瞥し、それから視線を前に戻した。何も言わなかった。耳の先が、ほんの少し赤い気がしたが、夕陽のせいかもしれない。
「回答は3日以内にいただければ」
馬車が動き始める。
私は石段に立ったまま、その背を見送った。
——照会文の束は、少なく見ても30枚はあった。3年間分の記録がそこにある。業務上の必要は、年に数回で十分なはずだ。
あの頻度の、本当の理由を。
この人は「直接お伝えしたかった」と言った。
では、まだ言っていない。
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