第10話 の一言で、五年が報われかける
封書を開いた瞬間、私の手が止まった。
1行目に書かれた肩書が、目の中に入ってきて、しばらく出ていかなかった。
――アルヴェスト帝国宮廷文書官長代理。
応接間の朝の光が、その文字の上だけ妙に明るかった。
バルトロメオが控えている。侍女が遠景に座っている。面会規定だ、と心の中で確認した。2人きりにはなれない。今日はその規定が、少しだけ助かると思った。
「……確認させてください」
「どうぞ」
公爵の声は静かだった。急かす色が、ない。
私は視線を書面の1行目に戻した。宮廷文書官長代理。前任が3年で倒れたという職位だ。昨夜ヴィクトルの口からそれを聞いたとき、私は「過分です」と言い返した。彼は「適正です」と短く答えた。それだけで会見が終わった。
それから2晩、私はその言葉を上申書の「不要」と並べて考え続けた。2文字と2文字。向きが正反対なだけで、重さが同じだった。受け取り方が、分からなかった。
続きを読んだ。待遇。権限。人員配置。月次報酬は元の職位の3倍を超えている。住居の手配あり。業務内容の確定は赴任後30日以内。
そして最後の条項に目が止まった。
第9条。勤務中に発生する業務上の危険に対し、甲は乙の身辺安全について別途保護誓約を締結する。
「……この条文」
「何か」
「監視に読めます」
沈黙が落ちた。
バルトロメオが遠景で息を詰めた気配がした。侍女も動きを止めたかもしれない。だが私の目は書面から離れなかった。
「監視を目的とした保護誓約は、書き方次第で対象者の行動範囲を制限できます。第1項に事前承認の文言を加えれば外出届が必要になる。第2項に同行義務を入れれば単独行動が禁じられる。それは守りではなく、鎖です」
言い切ってから、一瞬迷った。言い過ぎたかもしれない。ただ、引っ込める気にはなれなかった。5年間、上申書を出すたびに赤字で返されてきた。書いたことを飲み込む癖だけが残った。今更飲み込む必要はない。
「……赤で入れてもいいですか」
公爵は一拍だけ止まった。
「どうぞ」
バルトロメオが即座に赤インクの羽根ペンを差し出した。どこから用意していたのか分からなかったが、私は礼を言って受け取った。
書面を書斎机に移し、1条ずつ確認しながら入れていった。「事前承認」の文言を消す。「同行義務」の表現を「随行の任意」に書き直す。第9条の見出しを「身辺安全の担保」から「安全確保の相互協議」に変える。
作業に入ると、他のことを考えなくなる。5年間そうだった。台帳の背表紙をなぞるときも、鍵の番号を照合するときも、集中すると余分なものが全部外に出ていく。今もそうだった。
どのくらいの時間が経ったか分からなかった。顔を上げると、公爵がまだそこにいた。書類を手に持ったまま、私の手元を見ていた。急かす素振りは、どこにもなかった。
「……右の人差し指に、インクが」
バルトロメオの声だった。
見れば、赤いインクが指の腹に広がっていた。ペンの握り方が悪かったらしい。私は一瞬止まった。取り繕う言葉が出てこなかった。
「赤い指で申し訳ありません」
「構わない」
公爵の声が、どこかわずかに変わった気がした。変わり方の種類が、分からなかった。
書き直した条文を最後まで通した。第9条は今や「安全確保の相互協議に基づき、必要な場合に随行者を設ける。ただし乙の業務上の判断を妨げてはならない」に変わっていた。
鎖ではない。守りだ。
書き換えた。
私は書面を公爵の方へ戻した。
「こちらで、いかがでしょう」
公爵は受け取り、眼鏡越しに1行ずつ確認した。その横顔が、何かを堪えているように見えた。
そのとき公爵が口を開いた。
「あなたの価値を理解しない国に、あなたを置く理由がない」
声は静かだった。圧があるわけでも、感情が滲むわけでもなかった。ただ、事実を告げるように言った。
なのにその7文字が、5年分の重さで私の胸に落ちてきた。
喉の奥が、じわりと熱くなった。声になる手前の何かが、胸の中で形を探して、見つけられなかった。
5年間、上申書を出すたびに赤字が返ってきた。3ヶ月の引き継ぎ期間も、後任育成の予算も、不要だと言われた。誰一人、なぜ不要なのかを説明しなかった。説明するに値しない、という態度がそのまま赤い文字になっていた。
それなのにこの人は、3年間の照会文だけを根拠に、帝国で最高位の文書管理職を提示してくる。
「……これが条約目的の招聘でないとは、言い切れません」
声が、かすれた。
「それでも」と、公爵は静かに続けた。
「条約の期限が過ぎた後も、あなたには帝国にいてもらう予定です」
胸のどこかが、また痛んだ。昨日とも一昨日とも違う種類の痛みだった。
公爵が書面を折り、懐に入れた。眼鏡のフレームに指が触れた。一度だけ。
それから口が開いた。
4文字分の間があった。
聞こえない言葉が、喉のあたりで止まったのが分かった。
口が閉じた。
「……修正の内容は、これで正式受諾とみなします」
「……承知いたしました」
私は答えた。声は平坦に出た。いつも通りに。
公爵が立ち上がり、礼をした。バルトロメオが扉を開ける。側近のエルンストが廊下で控えていた。
公爵が出ていく直前、一瞬だけ止まった。振り返らなかった。扉の向こうで、ほんの一拍、静止した。
それから扉が閉まった。
私は赤いインクのついた指を見た。
喉で殺した4文字が何だったか、私にはまだ分からなかった。
ただ、指先が少しだけ温かかった。
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