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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第7章 眼鏡を外した瞬間

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第49話 寄り道の提案が、やけに真剣

 評議会の扉が閉まった瞬間、廊下がひどく静かだった。


 静か、というのは正確ではないかもしれない。廊下には人がいた。文官も護衛もいた。衣擦れも足音も、低い話し声もあった。けれど私の耳には、何も届かなかった。判決の言葉が、まだ空気の中を漂っていた。台帳の開いた頁。並べた空白目録。折り癖の一致。証拠の鎖が閉じた、あの静寂の重さが、まだ耳の奥に残っている。


 終わった、と思う。


 終わった、のに。


 足が止まっていた。どこへ歩けばいいのかわからなかった。評議会の壁から一歩離れたとたん、体の向きが急に曖昧になった。仕事が切れると、こういうことが起きる。進むべき方向を、次の手順が教えてくれていた。手順がなくなると、私はひどく不得手な生き物になる。


「セレスティーヌ」


 名を呼ばれた。


 振り向いた先に、ヴィクトル様が立っていた。眼鏡は掛けたままだった。帝国式の軍服の胸元は崩れていない。けれど、呼び方が違った。肩書でもなく、職位でもなく、ただ名前だけが廊下に落ちた。


「……はい」


 自分でも、妙な返し方だと思った。「はい」は公的な返答だ。仕事の続きのような応答だ。それしか出てこなかった。


「寄り道を」


 短い言葉だった。説明がなかった。命令でも提案でもなく、独り言に近い口調で彼は言った。


「……仕事ですか」


「違う」


 即答だった。眼鏡の奥の灰色の目が、わずかに動いた。


「では、なんですか」


「寄り道だ。それ以上でも以下でもない」


 前を歩き始めた彼の背中を、私はしばらく見ていた。護衛が2人、少し距離を置いてついてくる。文官たちがすれ違い様に会釈した。誰かの視線がこちらを掠めた。


 監視か、とまず思った。確認事項があるのか、とも思った。判決の後始末を兼ねた同行か、と計算しかけて、やめた。彼が「違う」と言ったから。


 それを信じることにした。理由はなかった。ただ、今夜だけ言葉にすると決めた翌朝に、信じないのは筋が通らない気がした。


 石畳に自分の靴音が響く。彼の靴音と、拍が合っていた。気づいたら、もう歩いていた。


 街路に出た。評議会の重い石造りが背後に遠ざかる。空気が違った。石と羊皮紙と封蝋の匂いが薄れて、外の気温が首筋に触れた。


「……どこへ」


「もうすぐわかる」


 石畳が石畳のまま、少し古びた区域へ入った。軒が深い。看板が文字でできている。インクと紙の匂いが、靴音より先に届いた。


 書店だった。


 扉を開く前に、私の足が一瞬だけ躊躇った。扉の上の看板。書かれた文字。くすんだ金色の縁取り。5年前に通っていた王都の書店とは違う。帝国の文字の組み方をしている。けれど、匂いは同じだった。本が積まれた場所の匂いは、どこへ行っても同じだった。


 中に入った。


 背表紙が棚にびっしりと並んでいた。視線が勝手に動いた。分類の仕方を確認する。索引の位置を探す。台帳番号の代わりに、著者名が刻まれている。論文集。年代別の法令集。――奥に、古い文書を模した装丁の本が並んでいた。


 気づいたら近づいていた。指が背表紙に触れた。


 肩から力が、抜けた。


 静かだ、と思った。今度の静かさは、廊下とは違う。仕事の終わりに残る静かさだ。次の手順を待たなくていい静かさだ。


「……文字の匂いです」


 声が出た。独り言のつもりだった。


「ああ」


 隣から返ってきた。彼も本棚の前に立っていた。視線は本の背表紙に向いている。眼鏡に手が触れた。触れかけて、止まった。


「ここに来た理由を、聞いてもいいですか」


「業務ではない」


 繰り返した。今度は最初より、低い声だった。


「……知っています」


「君が、ここにいるのが当然になる場所だ」


 意味が、一拍遅れた。


 聞き直そうとして、やめた。聞き直せば、彼は説明するだろう。説明されたら、私は処理しなければならなくなる。今は、処理できる気がしなかった。


 当然。という言葉が、胸の中でまだ転がっていた。


「……当然、なんて」


「なんだ」


「私に、一番遠い言葉です」


 彼が視線をこちらへ向けた。答えなかった。けれど、口元が、ほんの少しだけ動いた。反論しようとして、言葉を選んでいる顔だった。


 そのとき、店主が棚の陰から顔を出した。白髪で、丸い眼鏡をかけた老人だった。


「ごゆっくり。――ご婚約のお祝い栞はいかがでしょう、特製で」


 私は固まった。


 ヴィクトル様は否定しなかった。


 私は彼を見た。彼は店主を見ていた。何か言いかけて、言わなかった。店主は満足そうに頷いて、棚の奥へ消えた。


「……あの」


「特製らしい」


「そういうことではなく」


「栞は悪くない。返書の束に挟む用途がある」


 真顔だった。真顔で言われると、返せなかった。


 私は前を向いた。背表紙の文字を目で追った。紙の匂いが、さっきよりも深く吸い込まれてきた。


 当然になる場所。


 繰り返してみた。理解しようとして、できなかった。できなかったけれど、嫌ではなかった。それが怖かった。嫌でないことが、怖い。


 彼が、隣に立っていた。棚を見ていた。眼鏡は、掛けたままだった。


「君と――」


 声がした。低い声だった。


 私は顔を向けた。


 彼は、本棚を見ていた。続きを言わなかった。


 喉が、止まっていた。「君と」の二文字の先が、空白のまま棚と棚の間に落ちた。外から、鐘の音が届いた。遠い音だった。今夜の鐘ではない。明日の始まりを告げる、番の鐘だ。


 「君と――」の、その先を、彼はまだ言わない。


読んでいただき、ありがとうございます。


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