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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第7章 眼鏡を外した瞬間

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第50話 今この瞬間、未来を選ぶ

 評議会の発言席は、思っていたより静かだった。


 広間の空気が、台帳を置いた瞬間に変わった。


 私は卓の上に3点を並べた。台帳。空白目録。弁明原稿の写し。説明はしない。ただ並べる。配置だけが語る。紙は嘘をつかない。手順は必ず、誰かの指先へ戻っていく。


 傍聴席がざわめいた。しかし私は前を向いたままにした。目を上げれば揺れる。揺れれば並べた書類が証拠ではなく感情に見える。それだけは駄目だ。今日の私は書類を並べる人間だ。名前で立つ文書官だ。


「3点をご確認ください」


 声は平坦に出た。


「台帳3冊目5ページ左上の折り跡。弁明原稿の写し左上の折り跡。今朝の紐封じの隙間。同じ力加減、同じ角度、同じ利き手の癖です。そして空白目録の欠落箇所と、評議会庁書棚担当の記録係が毎日通った導線が、完全に重なっています。点は4つ。1本の線で繋がります」


 広間が、静まった。


 発言を求めた声があった。傍聴席の左端。帝国文官局の上席書記の肩書を持つ男だ。弁明しようとして立ち上がった。口が開いた。


 私は卓の上の弁明原稿の写しを、少しだけ彼の方へ向けた。


 男の声が、出なかった。


 私は知っていた。声が出ない理由を。文面の癖は逃げない。「お願いの形をした命令」の言い回しは、3週間前と今朝の帝国受付簿に、同じ筆圧で残っている。自分の文面を突きつけられた人間は、しばしば声を失う。


 議長が記録を求めた。書記が走った。


 折り癖は、今この場で、通者の手を特定する証拠として確定した。


 私は台帳の背を指でなぞった。いつもの癖だ。仕事が終わった、という合図だ。


 5年分の台帳が、今日ここで閉じた。


 眩暈がするかと思ったが、しなかった。ただ、膝の裏が、わずかに震えた。



 判決の言葉が広間に落ちた。


 賠償。役職更迭。監査権限の再配分。淡々とした言葉だった。感情のない言葉だった。しかしその言葉が、証拠の鎖が閉じた音として聞こえた。


 傍聴席から音がした。息を呑む音。書類の擦れる音。誰かが席を立つ音。広間が動き始めた。


 その中で、私は発言席を離れようとして、止まった。


 「セレスティーヌ」


 名を呼ばれた。広間に、その声が落ちた。


 振り向いた先に、ヴィクトル様が立っていた。


 眼鏡が、ない。


 傍聴席から来たのだ。帝国公爵として、公の場に立って、眼鏡を外したまま歩いてきた。交渉の顔でなく、本音の顔のまま、広間の視線を全部引き受けて、私の名前を呼んだ。


 周囲の動きが、一瞬止まった気がした。氷の公爵が、公の場で、女の名前を、肩書でなく名前だけで呼んだ。それがどういう意味を持つか、この場にいる全員が知っている。


 私も知っていた。


 縛られる、と思った。縛られる、と思ったのに、足が動かなかった。縛られることより、呼ばれたことの方が大きかった。この広間で、名前だけで呼ばれたことが、5年分の「地味で退屈」をその場所ごと塗り替えた。


「……はい」


 声が出た。公的な返答だった。でも今日は、それでいいと思った。



 評議会の外に出ると、空が広かった。


 石造りの壁が遠ざかって、また体の向きが曖昧になりかけた。しかし今日は昨日と違う。隣に靴音があった。


「閣下」


「ヴィクトルでいい」


 即答だった。眼鏡は、まだ掛けていなかった。


 私は前を向いたままにした。顔を見ると、うまく考えられなくなる気がした。


「……昨日の書店で」


「ああ」


「『君と』の先を、聞かせてもらえますか」


 靴音が、一拍だけ遅れた。


 短い沈黙があった。石畳に影が伸びていた。遠くで鳥の声がした。


「文字が読みたかった、と言った」


「はい」


「それは本当だ。だが、もう足りない」


 足音が止まった。私も止まった。


「君と生きたい。それが、今の言葉だ」


 心臓が、一度大きく跳んだ。


 処理しようとして、できなかった。「君と生きたい」は、業務連絡ではない。照会返書でもない。制度でも契約でも、守るでも道具でもない。ただの、一人の人間の言葉だった。


「……それは」


「答えは急がない」


「でも」


「急がない。ただ、記録として残す。君の言葉は証拠にすると言った。私の言葉も同じだ」


 眼鏡のない灰色の目が、こちらを向いていた。いつもより少しだけ、顔が近かった。


 私は当然なんて、私に一番遠い言葉です、と昨日言った。


 遠いままでいい。ただ、近づいていると知っていたい。


「……覚えておきます」


 それだけ言うのが精一杯だった。


 彼は、ゆっくりと瞬きをした。それから、眼鏡を上着の内側から取り出して、掛けた。交渉の顔に、戻った。でも耳が、わずかに赤かった。



 庭園の端に出たとき、定時の鐘が鳴った。


 低い音が、石畳に広がった。1打、2打、3打。


 護衛の若い男が、反射で「解散――」と言いかけて、咳払いをした。体裁を繕った咳払いは盛大に失敗して、むしろ目立った。私は笑った。今日初めて、笑った。


 隣で、ヴィクトル様の耳がさらに赤くなった。


「……次の定時」


 声が出た。自分でも驚くほど、普通に出た。


「あなたは、迎えに来ますか」


 沈黙があった。鐘の余韻が消えて、庭園に風が通った。


「来る」


 短かった。説明がなかった。契約でも命令でもなく、それは本当にただ、一言だった。


 私は前を向いた。


「では、定時に」


 彼も前を向いた。


「定時に」


 石畳を歩き始めた。靴音が、また2つ並んだ。


 迎えに来る、は契約ですか。それとも、恋ですか。


 その問いを飲み込んだまま、私は歩き続けた。答えは今日でなくていい。ただ、定時の鐘が鳴るたびに、その答えが少しずつ近づいてくる気がした。


読んでいただき、ありがとうございます。


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