第50話 今この瞬間、未来を選ぶ
評議会の発言席は、思っていたより静かだった。
広間の空気が、台帳を置いた瞬間に変わった。
私は卓の上に3点を並べた。台帳。空白目録。弁明原稿の写し。説明はしない。ただ並べる。配置だけが語る。紙は嘘をつかない。手順は必ず、誰かの指先へ戻っていく。
傍聴席がざわめいた。しかし私は前を向いたままにした。目を上げれば揺れる。揺れれば並べた書類が証拠ではなく感情に見える。それだけは駄目だ。今日の私は書類を並べる人間だ。名前で立つ文書官だ。
「3点をご確認ください」
声は平坦に出た。
「台帳3冊目5ページ左上の折り跡。弁明原稿の写し左上の折り跡。今朝の紐封じの隙間。同じ力加減、同じ角度、同じ利き手の癖です。そして空白目録の欠落箇所と、評議会庁書棚担当の記録係が毎日通った導線が、完全に重なっています。点は4つ。1本の線で繋がります」
広間が、静まった。
発言を求めた声があった。傍聴席の左端。帝国文官局の上席書記の肩書を持つ男だ。弁明しようとして立ち上がった。口が開いた。
私は卓の上の弁明原稿の写しを、少しだけ彼の方へ向けた。
男の声が、出なかった。
私は知っていた。声が出ない理由を。文面の癖は逃げない。「お願いの形をした命令」の言い回しは、3週間前と今朝の帝国受付簿に、同じ筆圧で残っている。自分の文面を突きつけられた人間は、しばしば声を失う。
議長が記録を求めた。書記が走った。
折り癖は、今この場で、通者の手を特定する証拠として確定した。
私は台帳の背を指でなぞった。いつもの癖だ。仕事が終わった、という合図だ。
5年分の台帳が、今日ここで閉じた。
眩暈がするかと思ったが、しなかった。ただ、膝の裏が、わずかに震えた。
判決の言葉が広間に落ちた。
賠償。役職更迭。監査権限の再配分。淡々とした言葉だった。感情のない言葉だった。しかしその言葉が、証拠の鎖が閉じた音として聞こえた。
傍聴席から音がした。息を呑む音。書類の擦れる音。誰かが席を立つ音。広間が動き始めた。
その中で、私は発言席を離れようとして、止まった。
「セレスティーヌ」
名を呼ばれた。広間に、その声が落ちた。
振り向いた先に、ヴィクトル様が立っていた。
眼鏡が、ない。
傍聴席から来たのだ。帝国公爵として、公の場に立って、眼鏡を外したまま歩いてきた。交渉の顔でなく、本音の顔のまま、広間の視線を全部引き受けて、私の名前を呼んだ。
周囲の動きが、一瞬止まった気がした。氷の公爵が、公の場で、女の名前を、肩書でなく名前だけで呼んだ。それがどういう意味を持つか、この場にいる全員が知っている。
私も知っていた。
縛られる、と思った。縛られる、と思ったのに、足が動かなかった。縛られることより、呼ばれたことの方が大きかった。この広間で、名前だけで呼ばれたことが、5年分の「地味で退屈」をその場所ごと塗り替えた。
「……はい」
声が出た。公的な返答だった。でも今日は、それでいいと思った。
評議会の外に出ると、空が広かった。
石造りの壁が遠ざかって、また体の向きが曖昧になりかけた。しかし今日は昨日と違う。隣に靴音があった。
「閣下」
「ヴィクトルでいい」
即答だった。眼鏡は、まだ掛けていなかった。
私は前を向いたままにした。顔を見ると、うまく考えられなくなる気がした。
「……昨日の書店で」
「ああ」
「『君と』の先を、聞かせてもらえますか」
靴音が、一拍だけ遅れた。
短い沈黙があった。石畳に影が伸びていた。遠くで鳥の声がした。
「文字が読みたかった、と言った」
「はい」
「それは本当だ。だが、もう足りない」
足音が止まった。私も止まった。
「君と生きたい。それが、今の言葉だ」
心臓が、一度大きく跳んだ。
処理しようとして、できなかった。「君と生きたい」は、業務連絡ではない。照会返書でもない。制度でも契約でも、守るでも道具でもない。ただの、一人の人間の言葉だった。
「……それは」
「答えは急がない」
「でも」
「急がない。ただ、記録として残す。君の言葉は証拠にすると言った。私の言葉も同じだ」
眼鏡のない灰色の目が、こちらを向いていた。いつもより少しだけ、顔が近かった。
私は当然なんて、私に一番遠い言葉です、と昨日言った。
遠いままでいい。ただ、近づいていると知っていたい。
「……覚えておきます」
それだけ言うのが精一杯だった。
彼は、ゆっくりと瞬きをした。それから、眼鏡を上着の内側から取り出して、掛けた。交渉の顔に、戻った。でも耳が、わずかに赤かった。
庭園の端に出たとき、定時の鐘が鳴った。
低い音が、石畳に広がった。1打、2打、3打。
護衛の若い男が、反射で「解散――」と言いかけて、咳払いをした。体裁を繕った咳払いは盛大に失敗して、むしろ目立った。私は笑った。今日初めて、笑った。
隣で、ヴィクトル様の耳がさらに赤くなった。
「……次の定時」
声が出た。自分でも驚くほど、普通に出た。
「あなたは、迎えに来ますか」
沈黙があった。鐘の余韻が消えて、庭園に風が通った。
「来る」
短かった。説明がなかった。契約でも命令でもなく、それは本当にただ、一言だった。
私は前を向いた。
「では、定時に」
彼も前を向いた。
「定時に」
石畳を歩き始めた。靴音が、また2つ並んだ。
迎えに来る、は契約ですか。それとも、恋ですか。
その問いを飲み込んだまま、私は歩き続けた。答えは今日でなくていい。ただ、定時の鐘が鳴るたびに、その答えが少しずつ近づいてくる気がした。
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