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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第7章 眼鏡を外した瞬間

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第47話 名を呼ぶ直前、喉が震える

 評議会の控室に証拠の束を持ち込んだとき、最初に気づいたのは、弁明原稿の紙の順番が入れ替わっていることだった。


 1枚目と3枚目。昨夜私が封じた通り、赤い紐で縛ってあるのに。紐は解かれていない。しかし確かに、2枚の位置が昨夜と違う。


 指先に、一瞬だけ冷たいものが走った。


 紐を解かずに差し込める。それは、この束の封じ方を内側から知っていた人間だ。紐の結び目の位置、幅、張り方。記録係の書棚の横に立って、保管室の出入りを覚えられる位置にいた人間。先ほどまで「折り跡の一致」として見えていた輪郭が、今この瞬間にさらに一段、鮮明になった。


 台帳の折り跡、控えの折り跡、弁明原稿の写しの折り跡。そしてこの、今朝の紐封じの隙間。4点が同じ手から出たとすれば、その手が届く範囲は自ずと絞られる。


 喉を一度だけ締め、開く。揺れている時間はない。


「この順番ですが」


 机の向こうの若い書記に声をかけた。監査官の補佐を務めていた顔だ。


「1枚目と3枚目が入れ替わっています。紐は解かれていません。触れていない方は、そのままで」


「……私では」


「わかっています」


 静かに言いながら、結び目の向きを書記に見せた。


「紐を解かずに差し込める位置を知っていた人間がいます。今日ここにいる人間です。最終照合を始める前に、この状態を記録に残してください」


 書記は少しの間を置いて、頷いた。私は束を抱え直した。



 廊下に出ると、評議会直前の人の波が押し寄せてきた。


 貴族、書記、護衛。皆がそれぞれの目的地へ向かって動いている。その中を歩くと、視線が刺さった。確認の目だ。「何者か」と「何かあった」が混ざった種類の視線。王国から来た令嬢、氷の公爵に拾われた文書官長、という文脈がすでに宮廷を巡っていることを、この視線の質が教えてくれる。


 自然と歩幅が速くなった。


「お二人、同じ歩幅で……」


 背後で、誰かが小声で囁いた。廊下の端を歩いていた書記の一人が、気を利かせたつもりで言ったものだ。声はそれ以上続かなかったが、私の歩幅はさらに速くなっていた。


 横から、靴音が追いついてきた。


 ヴィクトル閣下が、無言で同じ速度に合わせた。


 歩幅を速めた意味がない。小さく息をつく。


 廊下の左側に、評議会庁の書棚が一列並んでいる。普段は書記たちが台帳の搬入のために通る導線だ。今日は審議前のため、棚の前に立つ人間が少ない。その分、誰がどこを通ったかが、記録の残り方で見えやすくなっている。


 台帳が置かれていた棚と、保管室の出入り口と、弁明原稿の受け渡しが行われた机。3点を頭の中で繋いだとき、それが一本の線になった。書棚担当の記録係が日常的に通る順路と、完全に重なる。


 まだ名前はない。しかし輪郭はある。今日の審議で、それが形を持つ。


 閣下は、並んで歩いたまま何も言わない。それだけのことが、今日は妙に落ち着かない。



 扉の手前で、最終照合の場所が設けられていた。


 ミレイユと護衛2名が並び、私は台帳を開いた。閣下は少し離れた位置に立っている。証拠書類と提出書類の照合は、一字でも合わなければ一からやり直しだ。


 台帳の端を人差し指でなぞりながら、進める。控えの順番、封蝋の型、折り跡の位置。3点が揃って初めて、昨夜の作業が正当な証拠として成立する。


 3冊目を開いたとき、指先が止まった。


 5ページ目の左上。


 折り跡が、今朝の弁明原稿の写しと完全に一致した。


 角度、力加減、折り目の細さ。3点が揃っている。昨夜の控え、台帳、弁明原稿の写し、そして今朝の紐封じの隙間。4点が同じ手から出たことが、これで確信になった。


 この台帳が評議会庁の書棚に置かれていた期間。弁明原稿を記録係が受け取った日。保管室の紐封じを覚えられる位置。3つの条件が重なる導線は、1本しかない。


 動ける範囲が、絞れた。


 喉の奥で何かが静まった。恐怖ではなく、集中だった。



 照合が終わったのと同時に、外から「10分前」という声が聞こえた。


 ミレイユが書類を受け取りに来て、私は束を渡した。渡した瞬間、急に手が軽くなった。昨夜からずっと何かを抱えていた腕が、初めて空になった。


 隣で、衣擦れの音がした。


「リ」


 声が止まった。


 私は目を上げた。


 閣下が、扉の方を向いたまま立っている。眼鏡の縁に指がかかっていた。外しかけて、止めた形だ。喉元が、一度だけ動いた。


 私の名前を、呼ぼうとして、止めた。


 理由は、わかった。


 今この廊下で私の名前を呼べば、周囲の視線がその1点に集中する。「氷の公爵が個人として声をかけた女」という文脈に書き換えられる。審議の前に、私の立場が文書官長から別の何かに変わる。それが、彼を止めた理由だ。私のために、止めた。


 守られることは、縛られることだと思っていた。守るという言葉を、ずっと怖がっていた。


 でも今、呼ばれなかった方が怖かった。


 縛られるより、呼ばれないことの方が。


「……閣下」


 小声で言った。


「後で、聞かせてください。何を言いかけたか」


 閣下がゆっくりこちらを向いた。眼鏡の奥の灰色の瞳が、一拍だけ揺れた。


「……呼びたい。だが、今呼べば君を縛る」


「縛られるのが怖いのに……呼ばれないのは、もっと怖いです」


 廊下の喧騒が、どこか遠くなった気がした。


 閣下はそれ以上何も言わなかった。ただ視線を前に戻し、眼鏡を掛け直した。交渉の顔だ。今から扉の向こうへ入る、という切り替えの合図だ。


 私も正面を向いた。


 台帳は閉じた。証拠の鎖は繋がった。審議が始まる。


 でも胸の中に、閉じていない何かが残っている。形のないまま、ここにある。



 提出を受けた担当書記が、最後に確認票を閉じた。その手を止めて、書記が独り言のように言った。


「弁明原稿の写し……3週間前の文面と今日の文面、言い回しが同じですね。まるでお願いみたいな形で書いてあるのに、中身は命令です」


 私は受け取った書類の束を、もう一度だけ見た。


 お願いの形をした命令の文面。それを書いた声。3週間前にも見た、あの言い回し。


 帝国の書類の中に、その声が混じっていた。


 誰の声が、どこからここまで届いていた?


読んでいただき、ありがとうございます。


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