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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第7章 眼鏡を外した瞬間

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第46話 朝が来るまでに、台帳を閉じる

 証拠保管室の扉を開いた瞬間、違和感があった。


 場所が合わない。


 封蝋済みの控えは5通、左端から時刻順に並べるのが正規手順だ。昨夜、私が最後に確認した配置は、確かにそうなっていた。しかし今、4番目と5番目が入れ替わっている。内容が変わったわけではない。封蝋の型も、紙の質も、正規のままだ。ただ順番だけが、一晩で動いた。


 誰かが触れた。


 昨夜の「押し跡」の主が、今夜もここへ来た、ということだ。


 私は扉の前でそのまま止まった。声は出さない。書記のミレイユが背後で息を飲むのがわかった。


「触れないでください。このままで」


 小声で言い、自分だけ一歩踏み込んだ。外廊の蠟燭の光が薄く室内に差し込んでいる。棚の縁、封蝋の台、書類の端。どこにも乱れがない。だからこそ怖い。丁寧に触れた、という意味になるから。


 4番目の控えを指先の腹でそっと持ち上げた。


 紙の左上の角に、微かな折り跡がある。私が昨夜閉じた時にはなかった。癖だ。誰かが確認のために持ったときの、利き手の自然な癖。


 これは証拠として使える。


 朝が来るまでに、台帳を閉じる。


 そう決めた瞬間、頭の中が静かになった。




 回廊は冷えていた。


 移動の途中、足音が追いかけてきた。振り向かなくてもわかる。歩幅と靴の音で、ヴィクトル閣下だとすぐに判断できるようになったのはいつからだろう。


「配置が変わっていました」


 私が先に言った。


「……報告は後でいい」


「後では遅い。今の状態を記録させるべきです。角の折り癖は今夜が初出ではないはずです。台帳の控えを遡れます」


 短い沈黙があった。


 横目で見ると、閣下は眼鏡の縁に指を添えかけて——止めた。廊下の空気が一瞬だけ硬くなる。何かを声にしかけて、飲み込んだのがわかった。怒りではなく、別の何かが圧縮されて、形を変えたような間だった。


「……作業机へ」


 それだけ言って先を歩いた。


 私はそれに続きながら、自分の心の端で何かが静かに揺れるのを感じた。あの指先が止まった瞬間。声にならなかった言葉がある。でも今はそれを受け取る時間ではない。


 台帳が先だ。




 作業机に台帳と控えを並べた。


 計7冊の台帳のうち、問題の差し替えに関係しそうなのは3冊。審議期間中に記録係が出入りした日付と、控えの封蝋日時を照合する。単純な作業だが、一字でもずれれば一からやり直しだ。


 3冊目の台帳を開いたとき、目が止まった。


 5ページ目の左上。


 ほんのわずか、紙の角が折れている。


 同じ癖だ。


 利き手が書き込む時の、自然な押さえ方から来る折り跡。今夜保管室で見た控えの折れ方と、角度が一致する。私はそのまま弁明原稿の写しを引き寄せた。3週間前に記録係が提出した写し。そちらの左上も、同じ方向に折れている。


 紙は嘘をつかない。


 手順は、必ず誰かの指先へ戻っていく。


 台帳、控え、弁明原稿。3つの書類が同一の手から出たことが、これで繋がった。


「……角が揃いすぎています」


 声が、自然に出た。


「揃える人の逃げ方です」


 閣下が手を止めた。私の手元を、眼鏡の奥から見ている。


「折り跡が台帳にもあった、ということか」


「はい。弁明原稿の写しにも。同じ力加減、同じ角度。偶然では一致しません」


 閣下は何も言わなかった。ただ封蝋用の蝋燭を引き寄せ、作業を再開した。その横顔が、いつもより少しだけ硬い。


 私は台帳の照合を続けた。




 小控室に呼ばれたのは、夜半を過ぎたあたりだった。


 監査官は短い男で、机の上に時刻表を広げていた。評議会付きの役職で、審議の手続きを管轄する立場だ。


「リーデルハイト文書官。確認は夜明け前までです」


 声に感情はなかった。ただ告げているだけ。しかし「夜明け前まで」という言葉が、胸の中で小さく刺さった。


「……どのくらいの余裕がありますか」


「定時の鐘4打分。それ以上は受け付けない。手続きの都合です」


 4打。今の作業の速度で間に合うかどうかは、台帳の照合が残り何枚かによる。


「承知いたしました」


 礼をして出た。廊下に出た瞬間、目の前が少しだけ暗くなった。立ちくらみではない。単純に、疲弊の端が見えた、というだけだ。


 床石を見ながら、一つ息を吐く。


 ここで倒れる理由はない。台帳はまだ閉じていない。




 作業机に戻ると、封蝋の準備ができていた。


 閣下が、最後の1通を手に持って待っていた。封蝋位置の定規も出ている。私の作業方法を覚えている、ということだ。いつから。気づいていなかった。


「夜が終わる前に、君の名前を守る。――書類でな」


 静かな声だった。机に向けて言ったのか私に向けて言ったのか、判別できない言い方だった。


 でも確かに、私に向かっていた。


 喉の奥が、微かに詰まった。守る、という言葉はずっと怖かった。守るは鎖だと思っていた。でも今夜の閣下の「守る」は、机の上の証拠書類と、それを作った私の名前を、同じ位置に並べている。道具としての名前ではない。


 私が押した封蝋が、私の仕事の証拠として残る。


 それが守る、ということだと、今夜初めてわかった気がした。


 蝋燭の火で蝋を溶かす間、ちらりと横を見た。閣下が封蝋用の棒を持ち直した瞬間、溶けた蝋がわずかに指の甲に垂れた。小さな失態だ。一瞬だけ動きが止まり、しかし表情は変わらない。隣にいた護衛の若い男が、音もなく布を差し出した。閣下は受け取り、どちらも一言も言わず、どちらも目を逸らした。


 私も前を向いた。


 最後の1通の封蝋を押す。定規で位置を測り、押し跡が均一になるよう力を整えて。


 鮮明な型が、紙の上に落ちた。


 正規の手順で閉じた、最後の1通だ。




 机の上に、完成した証拠の束が並んだ。


 照合済みの台帳。控え。弁明原稿の写し。そして今夜の封蝋写しと、折り跡の記録。


 折り癖が残っている。――つまり触れた者が、今夜もここにいる。


 明朝の審議卓には、点が線として繋がって置かれることになる。


読んでいただき、ありがとうございます。


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