第45話 判決前夜——最後の手が伸びる
灯りが落とされた廊下で、音がした。
足音ではない。もっと小さい。扉のそばで何かが静止したような、息を殺した気配。
私は文書を手に持ったまま動かなかった。証拠保管室は廊下の突き当たり。夜間の見回りはミレイユが交代の手配をしている。交代から次の巡回まで、4分の空白がある。それは私も知っているし、書記官であれば誰でも知っている。
問題は、知っていてよい人間が今夜どこにいるか、だ。
ゆっくりと角を曲がり、廊下の奥を見た。保管室の扉に近い場所に、人影が一つある。衣の色が暗すぎて、身分の徽章が見えない。しかし手が、扉の把手ではなく、傍らに設置された仮封蝋の確認台に伸びていた。
私の胸の中で何かが冷えた。
感情ではない。判断が、温度を失う感覚だ。
あの台には、明朝の判決に出す証拠書類の予備封蝋が置かれている。二重封蝋の外側、つまり合い言葉の役割をする側。そこに手が触れれば、剥がさずとも痕が残る。そして痕が残ったことを、明朝の審議台で私は示せる。
だから私は叫ばなかった。
一歩下がり、廊下の角でただ立った。膝が揺れないよう意識する。指先に力を込め、持っていた文書の角を折らないようにする。できることは、証人でいることだけだ。
背後に気配がした。
「セレス」
低く短い声。ヴィクトル閣下だった。
私が声を出す前に、彼は廊下の奥を一瞥した。銀縁の眼鏡が、わずかに灯りを拾う。次の瞬間、眼鏡の縁に指が触れた。言葉を飲み込む時の、あの癖。
「開けるな。記録しろ」
それだけ言って、彼は背後の護衛へ合図した。足音が増え、人影が廊下の奥へ消えた。扉の音。逃走ではなく、立ち去り。捕縛ではなかった。
私は息を吐いた。
「……追わないのですか」
「今夜は要らない」
短い答えだった。
彼が護衛に何か指示を出す間、私は確認台へ近づいた。夜間臨時の蠟燭を手に取り、台上の封蝋を正面から見る。外側の蝋の表面に、ごく薄い押し跡がある。指の腹ほどの面積。剥がそうとした跡ではなく、持ち上げようとして思い留まった跡だ。
私は封蝋写し用の薄紙を取り出した。
「……リーデルハイト文書官」
ミレイユが息を切らして駆けてきた。夜着の上に外套を羽織ったままで、手袋の片方が捲れている。
「今夜、棚に触れる音がしまして。見回りの間隔が——」
「知っています。記録してください。封蝋の押し跡の形、今夜の刻限、あなたが気づいた経緯。一字も省かず」
「……復唱します。押し跡の形、刻限、経緯——」
「それから」私は封蝋写しを薄紙に押し当てながら続けた。「手袋の片方が捲れています。怪我をしないうちに直してください」
ミレイユが小声で「ありがとうございます」と言い、両手で外套の前を合わせた。
護衛が戻ってきた。体格の良い若い男で、私の手元を見て目を瞬かせた。
「……封蝋って、こんなに繊細なんですね」
「今さらですか」
思わず小声で返してしまった。護衛が首を縮め、ミレイユが必死に笑いを飲み込んでいる。それがわかっても、今夜だけは咎める気になれなかった。
封蝋写しを議事録の用紙に貼り、刻限と場所を書き込む。押し跡の位置は右端から指2本分。人の利き手の癖が出やすい場所だ。左利きか右利きかは、明朝の審議で意味を持つかもしれない。
閣下が窓際に立っていた。
夜の評議会棟は灯りが少なく、外の空が白々と見えるほどではない。しかし夜明けはもう、遠くない。
「触れましたね」私は書き終えた議事録を閉じながら言った。「……証拠に指紋を残しました」
「そうだ」
「明朝の審議で出せます。改竄を試みた者が誰かは今夜言えないけれど、試みた事実は公の卓に置けます」
「わかっている」
彼は窓の外を見たまま言った。眼鏡がわずかに曇り、指がまた縁に触れる。
「今夜は捕まえない。——明日、公の場で終わらせる」
その声に、感情がなかった。
感情がないのではなく、感情が圧縮されて、ほとんど気配になっている。私はそれを隣で知っていながら、何も言えなかった。
言えるとすれば、一つだけある。でも公の夜に、記録される可能性のある場所で言う言葉ではない。彼が私の名を武器にしたくないと言ったように、私も今夜は自分の欲しいものを武器にしてはいけない。
だから私は、封蝋写しを二重に折り、明朝の証拠束の中に挟んだ。
息を、一度だけ深く吐く。
赤字の「不要」は、明朝の判決卓へ運ばれる。改竄を試みた者の痕も、議事録に刻まれた。どちらも消えない。
判決は明朝。——赤を公に置けるのは、その1度きり。
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