第44話 言うべき一言を、まだ言わない
控室の机は狭い。
評議会の廊下に面した小部屋で、私は午後の議事録の控えを読み直していた。読む、というより確かめる、に近い作業だ。文字の順序。封蝋の型。番号の照合。どこにも赤は入れない。これはもう証拠だから。
「リーデルハイト」
声がした瞬間、指が止まった。
扉を開けもせず、ヴィクトル・ノヴァルティスはそこに立っていた。銀縁眼鏡の向こうで、目が私を静かに見ている。廊下の気配が背後に滲んでいた。
「今日、言うな」
それだけだった。理由は来なかった。
私は一拍おいて、視線を控えに戻した。
「……何を、でございましょう」
「わかっているだろう」
わかっている。だから聞いた。
今日の審議で、私には言えることがある。言うべきことが、ある。F11の控えが整い、検査札の番号が揃い、弁明原稿の同一性が浮いた。証拠連鎖はほぼ完成している。あとは一行、公の場に置くだけだ。その「一行」を、今日言うな、と言っている。
「明朝、まとめて出す」
ヴィクトルが短く言った。眼鏡の縁に、右手の指先が触れた。言い淀みではない。確信を固める癖だ。五週間この人を見てきたから、もう分かる。
私は控えから目を上げた。
「……温存するのですか」
「そうだ」
「理由は」
「君に傷がつく順番ではない、今は」
傷。その言葉が、胸の少し奥で引っかかった。
守るために言う、と思っていた。証拠が揃ったなら、早く公にする方が防御になる。それが私の論理だった。でも彼は逆を取っている。言わないことで、何かを守ろうとしている。
何を、と聞く前に、彼は扉を引いた。
「明朝まで、控えには触れるな」
背中が廊下へ消えた。
私は椅子の上で、息を一つ吐いた。
控えの紙が、机の上で静かに光を吸っていた。二重封蝋の押し跡が、斜光の中で薄く浮いている。指を伸ばしかけて、止めた。触れるな、と言われた。言われた、から止めたわけではない。本当は、確かめたくなかった。封蝋の微差を指で追う間、どうしても考えてしまう。あの夜、誰かがここに触れようとした、という事実を。
私が先に気づかなければ、今ごろ証拠は書き換えられていた。
それは事実だ。でも、ヴィクトルが「開けるな、記録しろ」と命じなければ、私は正しく動けたか。一人なら、焦って開けていたかもしれない。
二重封蝋の押し跡を見た。
触れなかった。
午後の休廷で、廊下に人が出た。
評議会の重い扉が開き、神殿側とアドリアン・ヴェルヌの一行が傍聴席へ戻っていく。私は壁際を歩いていた。書記のミレイユが書類の束を抱えて小走りで通り過ぎ、手袋の白い端が揺れた。今日だけで何枚替えただろう、と小さく思った。
廊下の突き当たり、高窓の下にヴィクトルが立っていた。
足が、自然に近づいた。一歩。もう一歩。
そこで止まった。
止まった自分に、少しだけ驚いた。
近づきたかったのか、と問う前に答えが出ていた。そうだ。でも、理由が分からなかった。確認したいことがあるわけではない。報告すべき情報もない。ただ、隣に立ちたかった。それだけだ。
だから、引いた。
公の場だ。廊下は議事録の外でも、傍聴席の目は廊下に伸びる。ジュリウス・ハインが「私情では」と言いたそうに、今日も議員席の端で拍手の音を遅らせていた。ヴィクトルの名が私情の色に染まれば、彼の一言の重さが変わる。
私は壁際の元の位置に戻った。
窓から光が落ちて、ヴィクトルの銀縁眼鏡に反射した。彼は動かなかった。私が近づいたことも、引いたことも、見ていたはずだ。でも何も言わなかった。
言わないのですね、と思った。一番、欲しいところだけ。
夜になった。
執務室の机に、明朝提出する控えが並んだ。二重封蝋のものが3通。議事録の写しが1部。検査札の番号を書き留めた紙が1枚。私はそれを一つずつ確認し、封をして、蝋を溶かす準備をした。
ヴィクトルが隣に立っていた。
定規を出した。封蝋の位置を揃えるために、机の端から測る。几帳面というより、正確に言えばずれを許さないというタイプだ。1ミリのずれで差し替え痕が浮くことを、彼は知っている。
「……几帳面は、感染しますね」
声が出たのは自分でも意外だった。
ヴィクトルが手を止めて、視線だけを横に寄越した。表情は動かない。でも、眼鏡の奥で何かが小さく揺れた。
「感染するほど側にいた覚えはない」
「5週間、おそばにおりました」
「……それは、そうだな」
封蝋を押す位置に、彼の指が添えられた。私の指と、一枚の紙を挟んで並んだ。
触れていない。触れていないのに、熱が近い気がした。
馬鹿なことを考えている、と思った。証拠書類の封をしている最中に。
「明朝、終わらせる」
ヴィクトルが言った。私ではなく、机の上の3通に向けて。
「はい」
私も紙に答えた。声が、少しだけ平坦に出た。
「終わったら」
彼が続けた。今度は、机ではなかった。
横を向いた。眼鏡の縁に、もう一度指が触れている。言い淀みだ。今度は確信ではなく、言い淀み。
「私の——」
扉が、鳴った。
廊下から書記のミレイユが「申し訳ありません、控えの確認を」と声を上げた。
ヴィクトルは眼鏡から指を離し、扉を押した。言いかけた言葉は、廊下の空気に飲まれた。
私は封蝋の上に目を落とした。
押し跡が、整然と光っていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。




