第39話 赤字の判——狙いはどこに
廊下に足を踏み入れた瞬間、石の冷気が首筋に貼りついた。
評議会棟は正午でも薄暗い。天井の高い回廊に、傍聴に来た者たちの低い話し声が反響している。神殿の白衣が混じり、王国の紋章入りマントが視界を横切る。昨夜の宿で3つの証拠を並べて眠れなかった体に、その空気は必要以上に重かった。
私は右手の指先をハンカチで拭った。インクは落としたつもりだったが、人差し指の付け根にまだわずかな朱が残っている。こういうときに限って、染みは消えない。
「緊張していますか」
声が隣から来た。ヴィクトルだった。歩調を合わせながら、前を向いたまま言う。眼鏡の縁に一瞬、指が触れた。
「していません」
「結構です」
それだけで会話は終わった。扉の前に書記ミレイユが立っており、彼女は私の姿を見るなり新しい手袋を着け直した。机の上には既に使用済みの手袋が3枚、きれいに揃えて積まれている。
「……お疲れ様です」と私は小声で言った。
「復唱します——文書官長、着席確認、よし」
彼女は仕事でしか返事をしない。今日は正しい。
扉が開く。
評議会の席は横に長く、正面の評議長席が石段の上にある。ヴァルター評議長が既に座っており、彼の眉は開廷前から動いていなかった。傍聴席の右が神殿、左が王国使節団。アドリアンが書簡の端を両手でそっと揃えていた。口角だけが丁寧に上がっている。
私は帝国官の席へ座り、資料束を卓に置いた。
議題は「禁書庫停止と介入権限の適正性」。5年間、毎回赤字で返されてきた申請が、今日は証拠として机に載る。
「開廷」
評議長の声が石の天井に当たって返った。ミレイユが議事録の羽根ペンを走らせる。
最初の議題提示が読み上げられたとき、私は手元の紙束の重さを確かめた。上から3枚目。それがある。
書記補がそれを証拠卓へ運ぶよう指示されたとき、空気が動いた。
紙を卓に置く音は、そう大きくなかった。けれど傍聴席がざわついた。理由は一目でわかる。紙の右上に、赤字が斜めに走っている。
——不要。
たった2文字だ。でも字の傾きと、止めの癖が、私の5年間の記憶と完全に重なった。これは私の申請書に何十回と返ってきた、あの言葉だ。見た瞬間に胃が冷えるような、あの赤字だ。
ミレイユが証拠登録のために卓へ寄り、赤字紙を確かめるとき、また手袋を替えた。机の端に4枚目が積まれる。評議長が「要点を」と短い札を出した。場が少し凍った。
「管理官が設計図を残さず、国家機能を止めた——それが事実です」
アドリアンが立ち上がったのは議題提示のすぐ後だった。声は穏やかで、遺憾という言葉を使いながら、紙の端を指でなぞっている。
「王国の関与を問う前に、帝国の官職者が職責を果たしていたかを問うべきでしょう。この赤字は、その証左ではありませんか」
傍聴席がまた揺れた。神殿側のセルガが笑顔で頷く。
私は動かなかった。
評議長が私へ視線を向けた。
「文書官長、回答を」
立つ。資料束は置いたままでいい。今は言葉だけでいい。
「その紙は、私が提出した禁書庫改修申請の決裁書です」
声は平坦に出た。
「1回目から5年間、毎回、同じ回答で戻されました。同じ形式で。同じ文字で。同じ傾きで」
アドリアンの口角が少しだけ動いた。
「私が設計図を残さなかったと仰るなら、それは正確ではありません。設計図は提出しました。7回。最後の1枚は最終審査前日です」
静寂があった。
「……では」とアドリアンが再び口を開いた。「返却された事実は変わらない。官職者の義務として、継続運用を——」
「それは止めたのではなく、止まるようにされたです」
声が広間に落ちた。私自身、これほど通るとは思っていなかった。
誰も即座には返せなかった。
「要点を」と評議長が静かに言った。
「赤字は、却下の色です」
私は一拍置いた。
「……でも、狙いの色でもある」
ヴィクトルが傍聴の帝国官席で眼鏡に触れた。怒りを声にしない、あの動き方だ。代わりに、少し間を置いてから彼が立つ。
「彼女の不備を問う前に、君たちの署名を並べろ。決裁に押した署名を」
アドリアンが書簡の端を、今度は少し強く握った。
証拠卓の上の赤字紙が、灯りを反射している。それを見ながら私は考えた。
7回分の申請を、全部同じ形式で返した者がいる。偶然にしては、揃いすぎている。設計図の再提出を許さず、後任への引き継ぎも困難にし、私以外の誰かが管理官を務めることを——最初から、させる気がなかった。
赤字「不要」は失態の証拠ではなく、何かを封じるための道具だったかもしれない。
それが誰の道具なのかは、まだわからない。
評議長が休廷の札を出した。ミレイユが手袋を5枚目に替えながら議事録を閉じる。机の端の手袋の山が、崩れかけていた。
私は証拠卓の赤字紙を一度だけ見た。
——この赤は、失態か。それとも、誰かの保険か。
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