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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第5章 神殿が噛みつく夜

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第38話 祝福の拍手が、嵐の前触れ

 清めの灯が点った瞬間、私は喉の奥で小さく息を止めた。


 儀礼殿の天井は高い。天幕代わりの白布が揺れ、祈祷紐がかすかに風を孕む。参列者は20人ほど——帝国側の文官と、神殿側の随員が半々で並んでいる。そのどちらからも「おめでとう」と言われる気配があって、私はそれを受け取る顔をどこに仕舞ってあったかを急に失念した。


 鎖が消えた、とはまだ思えない。


 ただ、もう、逃げ場がなくなったことだけははっきりと分かった。


 式次第が壁に貼り出されていて、参列文官がそれを食い入るように見ている。拍手のタイミングまで書いてある。私が祈祷紐を受け取った瞬間、20人の手が式次第の指定通りに一斉に鳴った。まっすぐに、几帳面に、揃いすぎて——どこか人形の部屋の音がした。隣に立つヴィクトル公爵が、視線を微かに斜め前へ流した。きっと私と同じことを思っていた。


 司祭長エルゼビオが祭壇の前に立つ。香油の匂いが煙とともに室内を満たし、白手袋が誓約文を広げた。


「では、朗誦を」


 声は低い。微笑むほど低くなる声だということを、私はこの5日で骨まで覚えた。


 ヴィクトルが一歩前に出る。


 その動作に、私は何か変なものを見た気がした。銀縁眼鏡が——ない。


 いつもは交渉の顔を作るときに掛けている眼鏡が、今日は胸ポケットに仕舞われている。外すと本音の顔になる。それを私は37話分の近くで見てきた。


 彼が誓約文を受け取り、一度だけ私を見た。


「——セレスティーヌ。君の名で、守る」


 祭壇の前で、公の場で、それだけ言った。


 私の胸の中で何かが一段、音もなく落ちた。鍵でも鎖でもなく——ただ、自分の名前が誰かに届いた音だったかもしれない。


「……なら私は、その名で、記録を残します」


 声が震えなかったのは奇跡だった。


 拍手が来た。式次第の指定通りに。几帳面に、まっすぐに。私はその音の中で、ヴィクトルの横顔を見ていた。眼鏡のない彼の目が、まっすぐ前を向いていて、少しだけ——少しだけ、口の端が動いた気がした。


 儀礼は20分ほどで終わった。退場の指示が出て、私たちは連れ立って回廊へ出る。


 参列文官が神殿随員と挨拶を交わしている間、監査官ヴァランが無言で誓約文の控えを私に渡した。彼の親指が、封蝋の縁をなぞっている。


「確認を」


 それだけ言って彼は前へ歩いていった。


 私は控えを手に取り、封蝋を見た。


 ……おかしい。


 蝋の色が、かすかに違う。自分で押した封蝋のはずなのに、赤の彩度が一段、淡い。私は指先で触れた。縁の微細なひび割れの入り方が、昨夜の控えとは違う。


 儀礼の最中に差し替えられた。


 胃の下の方が冷えた。祝福の言葉をもらった直後に、こんなものを持っている自分がおかしいのか、それとも誰かがおかしいのかを、私は一瞬で整理しなければならなかった。


 息を吸って、吐いた。


 今ここで声を上げてはいけない。この封蝋の差し替えを、相手は私に気づかせたくて置いたのではなく、気づかれないと思って置いた。ならば、私が気づいていないふりをしている間だけ、証拠の価値がある。


 廊下の突き当たりに、廃棄用の書類箱が置いてある。式次第の使い回し草稿が入っているはずの、あの木の箱だ。


 何かに引かれるように、私は少しだけ迂回した。


 箱の縁から紙の角が覗いていた。


 拾い上げると、式次第の余白に殴り書きがあった。草案だ。捨てる前の、単なる下書き——のはずだった。


 紙の角が、折れていた。


 その折り方を私は知っていた。第34話で焼却案の紙に見つけて、息が止まった、あの折り癖だ。指の当たり方が独特で、爪の痕のような細い線が入る。書いた人間が同じ。いや、同じ手癖を持つ誰かが、ここにも、いる。


 私は紙を袖の内側に収めた。誰も見ていなかった。


 回廊の奥でヴィクトルが監査官と話している。私は歩いていき、その2歩手前で止まった。


「ヴァラン監査官、控えの封蝋を確認してください。私のものでない可能性があります」


 ヴァランの目が細くなった。すぐに手を伸ばし、控えを受け取って光にかざす。彼の親指が縁を確かめる——しばらくして、静かに一度頷いた。


「……承知しました。規定通りです」


 声は変わらない。ただ、規定通りの含みが重かった。


 ヴィクトルが私を見た。眼鏡はまだない。その顔で、何かを読んでいる。


「儀礼は終わった。次の話を」


 彼が言うと、ヴァランが懐から一枚の紙を出した。


「翌日から、公的審議が始まります。対象は、今回の誓約に関わる手続きの適正性全般。——召喚名は、すでに出ています」


 私は召喚名の欄を見た。


 そこに書かれていたのは、神殿側の名前ではなかった。


 筆圧が、太い。そのひとつの文字の書き方——傾きと、止めの癖が。


 王国から来た帰還要請文、あの紙の字と、同じだった。




 その夜、宿の机で控えを広げた。差し替えの封蝋。廃棄箱の折り癖。召喚状の筆圧。


 3つが、違う方向から、同じ場所を指している。


 私は赤筆を持った。でも何も書けなかった。


 証拠は揃いかけている。けれど、揃った瞬間——誰が動くのかを、まだ私は知らない。


 翌朝、審議が始まる。


 公的に守られた名の下で、誰かが「同じ手」で盤面を動かしに来る。


読んでいただき、ありがとうございます。


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