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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第5章 神殿が噛みつく夜

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第36話 儀礼の言葉が、逃げ道を消す日

 朝の鐘が8時を打つ前に、通達が届いた。


 封蝋は神殿印だった。開けた瞬間、文面の1行目に「明夜」という言葉が飛び込んだ。清めの誓約儀礼を明夜に執り行う。文書館関係者の参列を、神殿は求める。求める、という表現だった。依頼ではない。招待でもない。仕様書に近い、あの書き方だ。返答の余白が最初からない。参列するか否かではなく、いつ来るかだけが問われている。


 私は通達を一度裏返して、発行番号を確認した。番号を指でなぞる。先日書き写した検査札の番号と、頭の中で並べた。2つの数字が半歩ずれながら重なる——同じ系列の番号だ。検査から儀礼へ、やり方を変えて発行元は同じ。この通達と、あの検査札は、同じ手が続けて出している。番号だけが、静かに答えを揃えていた。


 机の上に置いたまま、椅子から立ち上がった。


 逃げ道を塞ぐ言葉は、いつもこういう形をしている。親切な顔で、出口だけがない。


 ヴィクトル様の執務室へ向かったのは、それからすぐだった。ヴィクトル様はすでに席について書類を読んでいた。私が入ると顔を上げた。眼鏡の奥で、灰色の瞳が私の手元——通達——を一瞬見た。


「通達、読みました」


「知っている」


「明夜、と」


「誓約の儀礼だ。帝国文書官の身分保護を名目に、神殿が公認手続きを設ける。出れば神殿の権限が今後及ばなくなる。盾になる」


 私は少し間を置いた。


「盾、ですか」


「そうだ」


「誓約は、公認です。ですが破棄にも、拒否にも、コストが残ります。そのコストを背負う形で守られることを、あなたは盾と呼ぶ」


 ヴィクトル様の眼鏡に、指が触れた。あの仕草だ。言葉を止めるときの。


「祝福の言葉が、命令に聞こえます」


 声は思っていたよりも平坦に出た。怒っているわけではない。ただ、正確に言わなければならなかった。


 ヴィクトル様が一拍置いた。


「命令にさせない。……こちらの手順で、守る」


「手順の話ではありません」


 続けようとして、止めた。正確に言おうとするほど、ちょうど正確なところが痛い。昨日の馬車の中で飲み込んだ言葉が、喉の内側からまた動き始める。名を隠す守り方と、コストを背負う盾の話は、どちらも正しくて、どちらも今の私には別の刃になる。ヴィクトル様は間違っていない。私も間違っていない。だからこそ、言葉が噛み合わない。


「……条文を確認します。承知いたしました」


 踵を返した。


 監査室は、文書館の中で一番紙束が高い部屋だ。


 ヴァラン様は外套の袖口を整えながら、机の上に紙を1枚だけ置いた。


「不参加は停職。噂の流れによっては、品位審査へ移行します」


 声に感情がなかった。コストの重さだけが残る。


「……規模は」


「文書館関係者3名の名が候補に上がっています。あなたの名は、そのうちの1つです」


 世論の拡散速度は、神殿側が制御している。宣伝の経路と同じです、と彼は続けた。記録は薄く、宣伝は厚い。あの仕組みを、今度は私に向けて使ってくる。


「明夜の時刻は」


「日没後、第2鐘。儀礼殿の大礼廊です」


 ヴァラン様が親指で、卓上の封蝋の端を一度だけ押さえた。封蝋の縁が少しだけ欠けていた。


「コストを申し上げました。選択肢は、あなたがお決めください」


 廊下に出ると、神殿の随員が1人、壁際で儀礼文の草稿を読み上げていた。声が低く、一続きに途切れない。長い。長すぎる。横を通りかかった若い文官が足を緩めて、聞くともなしに聞き始めた。指先が壁に当たる。1度、2度、3度——息継ぎの回数を数えているのだと気づいた。随員は読み続けた。私は前を向いたまま通り過ぎた。


 自分の机に戻って、引き出しを開けた。


 昨日審問室で受け取り、置き直した誓約の雛形を取り出す。滑らかな紙質。名前の空欄。あらかじめ用意されている、という手触りは変わらない。


 赤入れ用のペンを取った。


 条文を読む。1行目、2行目、3行目と進める。赤を入れる目で読むと、言葉の重さが変わる。ここは書き換えられる。ここは削れる。「甲は乙に対し、公的な身分保護を約束する」——この一文だけは逆用できる。盾になり得る条文を、鎖の中から引き抜く。それが今日、私のやることだ。


 ペンの先が紙に触れる前に、止まった。


 鍵に、戻りたくない。


 それだけが、正直なことだった。役職名で守られることには慣れている。慣れているから、5年間続けた。誓約という形が盾であったとしても、その重さを二人で背負うことになる。それは鍵よりも重い。重いものを渡されることへの怖さと、重いものを渡してほしいという気持ちが、同じ場所で同時に引っ張っている。


 赤入れは、感情でするものではない。私はそれを知っている。でも今日の私は、ペンを持ったまま1行目の前で止まっている。


 ペンを置いた。まだ赤を入れていない雛形を、静かに重ねた。


 目を閉じると、馬車の揺れが戻ってくる。眼鏡に指を添えたまま、名前を呼びかけて止めた、あの横顔。


 日没が近い頃、扉に軽くノックがあった。


「どうぞ」


 扉が開いた。ヴィクトル様だった。手に薄い紙の束を持っている。封蝋がついていた。1通ではなく、3通分の印が揃っている。


「……これは」


「明夜の儀礼に使う誓約文の草案だ。神殿様式ではない。帝国書式で作った。控えは三通分用意してある」


 私の机の上に、そっと置かれた。


 3通の封蝋を確認した。帝国印と私の印の、2重押し。神殿印はない。控えは3通、番号も揃っている。穴がない。


「盾か鎖かは、君が判断してから決める」


 私は顔を上げた。


「条文を読んで、赤を入れて、控えを取れ。それが終わってから儀礼に臨む。私が今夜できるのはそこまでだ。……先に手順を置く。それが今の守り方だ」


 ヴィクトル様が眼鏡に指を伸ばした。伸ばして——今夜は、途中で止めなかった。


「——明日の朝までに、赤入れを返せ」


 扉が閉まった。


 私は3通の草案を机の上に広げた。封蝋の列が、蝋燭の灯の下で整然と並んでいる。帝国印と私の印。同じ組み合わせが、3通分。


 赤入れ用のペンを、改めて手に取る。


 明夜の灯が点けば、消えるのは自由か——それとも、信用か。


 まだどちらとも決まっていない。この赤が終わるまでは。

読んでいただき、ありがとうございます。


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