第35話 守ると言いかけて、名を隠した
審問室の白い壁は、親切だと思う。
隠すものが何もない顔をしているから、こちらも正直な顔を探さなくて済む。
司祭長エルゼビオは、白手袋の指を揃えて卓上に置き、微笑んだまま喋っていた。声が低い。笑うほど低くなる、という性質を持った声だ。
「清めの儀礼は、文書官長どの個人への……悪意ではございません。神殿は、帝国文書館と共に、より安全な学術環境を守りたいと願っているのです」
「……承知いたしました」
私は差し出された書類を一枚、引き取った。
紙質が、ひどく滑らかだった。普通の申請用紙ではない。手触りだけで、これが「用意済み」のものだとわかった。名前の空欄が丁寧に書き抜かれていて、そこに何かを書き込むことを当然の前提として構成されている。
「こちらは——」
「誓約の雛形でございます。個人への清めに際して、帝国の文書官も……神意の管轄内に入っていただくための」
丁寧な言葉が命令の形を取るとき、余計に重くなる。
指先が冷えた。私は雛形を静かに卓上に戻した。受け取り拒否ではなく、ただ置き直すように。
「確認の時間をいただけますか。文書の内容は、熟読の上で返答するのが私の手順です」
「もちろん」
司祭長は微笑んだままだった。指輪をゆっくり回す。「……ただ、期限は設けさせていただく必要がございます。神意には、猶予がありませんので」
その言葉が終わる前に、扉が開いた。
ヴィクトルだった。
今日は帝国の公紋を金糸で縫った上衣を着ている。「立会い」の格好だ、と私は一拍遅れて気づいた。
「帝国諜報統括、ヴィクトル=ノヴァルティス公爵として同席する」
声が部屋に落ちた。司祭長の微笑みが、わずかに薄くなった。
ヴィクトルは私の隣に立ち、司祭長に向かって静かに言った。
「文書官への個人的接触は、帝国官印の立会いが必要だ。——規定通りだろう」
「存じておりますとも」
エルゼビオが頭を下げた。角度が完璧だった。
「では、諜報統括のお立会いの下、進めさせていただきましょうか。儀礼の所作から——」
「必要ない」
一言だった。
司祭長が一拍止まった。神殿随員の1人が間を埋めるように進み出て、儀礼の所作をヴィクトルに向かって実演し始めた。右手を胸に、指を揃えて——丁寧で、完璧な動きだった。こうすれば貴族もならうはずだという計算が、見える。
ヴィクトルが、全く同じ所作を、一分の狂いもなく返した。
随員が止まった。
司祭長が目を細めた。
場が、別の意味でしんと静止した。
私は前を向いたまま、指先を封蝋にそっと添えた。
——この方は、本当にこういうところで損をする。
完璧すぎて、場が凍る。制圧のつもりが、周囲を奇妙な沈黙で包む。私だけがそれを知っていて、少し、おかしくて——少し苦しかった。
「雛形は返す」
ヴィクトルが書類を卓上に戻した。
「帝国文書館への誓約手続きは、帝国側の様式を使う。神殿様式への署名は求めない」
「……それは、神殿の——」
「権限範囲の話は、書面で。口頭では受けない」
エルゼビオが指輪を止めた。
「諒解いたしました」
低い声は、笑ったままだった。ただ、目が笑っていなかった。指輪の神殿印が、一瞬、光をはじいた。
「では、また改めて」
審問室を辞したのは、それから少しあとだった。
回廊は神殿の白い石造りで、香油の匂いが廊下の端まで染みていた。
ヴィクトルが並んで歩きながら、小声で言った。
「雛形は受け取るな。あれは署名した瞬間に、君の身分が神殿の管轄へ入る」
「……わかっていました」
「それと——」
一拍。
「今日は、名は出さなかった。公の場で君の名が神殿に拾われると、今夜中に噂になる。世論は正確じゃない。でたらめに広がって、品位を傷つける。それが——嫌だ」
私は足を止めた。
ヴィクトルが半歩先で立ち止まる。振り返る。
「……セレスティーヌ?」
その名が、二人きりの回廊でこんなにも自然に出るのに。
「一つ、伺ってもいいですか」
声が思ったより静かに出た。
「今日、あなたは私のために来てくださった。それはわかります。ありがとうございます」
「だが?」
「だが、あなたは今日、私の名前を一度も使わなかった。文書官長どのと帝国の立会いと、そういう言葉だけで……守ってくださいました」
ヴィクトルの顔から、何かが変わった。わずかに、眉が寄る。
「それが問題か」
「問題、ではないかもしれません」
胸の中の言葉を選んだ。正確に言わないと、感情が先に溢れてしまう気がした。
「ただ——守るなら、名前で——」
言葉は、思ったよりはっきりと出た。
「役職名で守られることには、慣れています。5年間、ずっとそうでしたから。でも今日は、あなたが来てくれた。だから私は、もう少しだけ……違う形を、期待してしまいました」
回廊に香油の匂いだけが漂った。
「……今は、その名前が刃になる」
ヴィクトルの声は低かった。
「理解しているか。君の名が神殿の文脈で世論に乗ると、一晩で別の話になる。私はそれが——」
「わかっています」
「嫌なんだ」
繰り返した言葉に、ほんの少し、何か別のものが混じっていた。言い訳ではなく、もっと直接的な、何か。
私は頷いた。頷くしかなかった。
理屈は、わかっている。
馬車に乗り込んだのは、それから少しあとだった。帝国側の馬車で、内側は墨色の幌で閉じられている。窓の外に神殿の白い屋根が流れていく。
私はその屋根を見ていた。
「……」
「セレ——」
ヴィクトルの声が、半分で止まった。
視線を向けると、彼は眼鏡に手を添えていた。いつもの仕草だ。本音が出かかるとき、必ずそうする。言葉を飲み込むときの、あの動作。
——呼びかけた。名前を、呼びかけた。
そして止めた。
馬車の揺れだけが、しばらく続いた。神殿の白が完全に見えなくなっても、ヴィクトルは眼鏡に触れたまま、窓の外を見ていた。
私の名前は、彼の口の中で溶けたまま、出てこなかった。
明日。
エルゼビオは「期限を設ける」と言っていた。名を呼べないまま、その日が来るとしたら——清めの灯が点くとしたら——私たちは、どの言葉で、どこへ向かうのだろう。
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