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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第5章 神殿が噛みつく夜

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第34話 譲れないものを、理解してくれる?

「燃やせば、終わります」


 政務庁の小会議室に入った瞬間、オルドがその言葉を卓の上に置いた。椅子に座る間もなかった。天井が低い。窓がひとつ、外の曇天しか映さない。テーブルの向こうに並ぶ顔が、全員どこか似た表情をしていた。やむを得ない、という種類の諦めを、あらかじめ纏って来る人間の顔だ。


「封印でも構いません。問題は、今夜の火種をどう処理するかで——」


 私は椅子に座らなかった。


「文書を消すことは、できません」


 声は静かに出た。荒げるつもりはない。ただ、そこだけは今朝の起床のときから動かないと決めていた。


「封印も焼却も、結果は同じです。都合の悪い文書を今日消せば、次は別の文書が消えます。一度だけ燃やしても、燃やした手順が残ります。その手順は使い回せます」


「感情論はよろしい」


 オルドが指先で卓を叩いた。指だけが綺麗だ。紙の匂いを嫌う男が、紙を燃やす話をしている。


「国家の安定のため、今夜この案件を処理する必要があります。現実を見てください」


「現実を見ています」


 返した瞬間、机の向こうで誰かが視線を泳がせた。


「燃やせば終わる?——文書は、都合で死なせていい命ではありません。終わるのは証拠です。終わらないのは、燃やした事実です。後者は、30年後に別の誰かが辿り着きます」


 沈黙が落ちた。遠くで神殿の鐘が鳴った。半刻の合図だ。


 ヴィクトル様が、一拍の後に口を開いた。


「なら、私はあなたの正しさの側に立つ。公に」


 それだけだった。短く、静かに、しかし逃げ道のない形で言った。


 会議室の空気が変わった。オルドの眉が跳ねた。隣の文官が何か言いかけて、ヴィクトル様の顔を見て黙った。


 私はヴィクトル様の横顔を見た。眼鏡の奥で、灰色の瞳が机の書類を見ている。昨日「筋だろう」と言い、今日また同じ重さで言う。感謝という言葉では軽い。もっと正確な言葉を私は持っていない。


 ただ、腹の底に、石ひとつが落ちるような確かさで沈んだ。


 守ってもらっているのに、守られていると思えない日が続いていた。公務として動く彼と、名の出ない私。その温度差が、ここ数日静かに積もっていた。今この瞬間、「公に」という言葉が、その積もりを少しだけ解かした。公の言葉で、公の場所で、私の正しさの側に立つと言った。それは私が求めていた形ではないかもしれない。それでも、重かった。腹の底で、何かが揺れて、揺れたまま静かに止まった。


 ——国家のために捨てる、ではなく、国家を守るために捨てない。それが今日ここで通った。




 会議を出たとき、廊下に神殿側の使者が立っていた。


 白い上衣、香油の匂い。後ろに随員が2人、小さな灯台を運んでいる。清めの灯だ。


「正義のもとに行われる焼却は、神意に適います。清めの儀礼として執り行えば、後に残るのは清めの記録のみで——」


「儀礼と称しても、焼却は焼却です」


「神殿が関わることで、手続きの問題は——」


 後ろで、火打ち石が鳴った。司祭が灯台に火を入れようとしている。一度、打つ。二度、打つ。火花が散った。芯は光らなかった。


 三度目。息を止めて、打つ。点かない。


 司祭が小さく息を吐き、芯へ向かってすうっと吹きかけた。蝋芯がわずかに揺れた。揺れて——消えた。


 完全に、消えた。


 ヴィクトル様が微動だにしていないのが、視界の端で分かった。眼鏡の奥で何かが動いて、止まった。私は使者の方へ向き直った。


「手続きが整いましたら、改めてご連絡ください。規定通りの形であれば、窓口で受け付けます」


 神意は手続きを待たない、と以前この男の上司が言った。


 だが今日は、待ってもらう。




 夜、机に書類を広げた。


 今日の会議で出た資料一式を、ヴァラン様が写しにして届けてくれていた。焼却案の本文、神殿側の添書、議事補足の覚書。3枚。


 焼却案の本文を手に取ったとき、指の腹が止まった。


 紙の右上の角に、折り癖がある。


 よく見る折り方ではない。内側へ、署名欄より先に折り畳まれている。紙目に逆らった向きで、均等な力がかかっている。訓練した手の、繰り返しの癖だ。


 筆圧の方向と、折り目の向きが合っていない。書いた後に折ったのではなく、折り目は書く前からある。


 私はその1枚を、他の2枚と並べた。折り癖は、この1枚だけだ。他の2枚の角は平らだった。


 蝋燭の炎が、かすかに揺れた。


 署名より先に、折り目が語っている。


 これは誰の手癖か。


読んでいただき、ありがとうございます。


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