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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第5章 神殿が噛みつく夜

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第33話 文書で塞ぐ制度の穴

 昨夜の答えが、今朝の手順に変わっていた。


 語られるほど証拠が薄くなる。売れるほど記録は空洞になる。昨日、書店の棚と神殿書庫で見えてきた事実が、朝になってもまだ胸の底に沈んでいた。だとすれば、問題は神殿の全能ではない。検査札の控えが薄いのも、記録簿の頁が飛んでいるのも、どちらも同じ構造だ。神殿は残させないことで自由裁量を守っている。


 穴があれば塞ぐ。祈りでは塞げない。条文で塞ぐ。


 それだけが今日やることだ。


 文書館の会議卓に資料を並べたのは、朝の鐘が7時を打ってすぐだった。監査官のヴァラン様がすでに座っていた。墨色の外套、無表情。だが、私が荷を下ろす前に白紙が3枚、卓上に揃えられていた。腕だけが速い人だ。


「改定案の原稿、確認します」


 私は赤入れ済みの用紙を差し出した。


 要点は2つ。神殿検査を行う際は写しを帝国書式で作成し、文書館控えとして保管する義務を設ける。封蝋は神殿印と帝国印の2重押しを必須とし、片方の欠落は手続き無効と見なす。これだけだ。これだけで、控えが薄い問題と、封蝋が誰の印か分からない問題の両方に栓をできる。


 ヴァラン様が原稿を手に取った。1頁、2頁、3頁。視線が止まった。止まって、また動いた。また止まった。


「……全行に赤が入っていますね」


「直すべき箇所は全部直しました」


「余白にも、入っていますね」


「補注です」


 彼は少し間を置いてから、もう1度原稿の端に目を走らせた。顔色が2段階ほど薄くなったように見えたが、作業の手は止まっていない。問題ない。赤が多いことと、間違いがあることは別の話だ。


「……規定通りです」


 彼はそれだけ言って、写しを取り始めた。ちょうどそのとき、ヴィクトル様が別件で部屋に入ってきて原稿をひと目見た。彼の表情は何も変わらなかった。それがなぜか、少しだけ落ち着いた。


 扉が開いた。


「随分、丁寧に書き直されましたね」


 リュシアン・オルドが入ってきた。指先がいつも綺麗すぎる男だ。紙の匂いを避けるように腕を折り、卓から1歩離れたところで立った。


「神殿に逆らうおつもりですか」


「逆らう必要はありません」


 私は顔を上げた。


「規定を整備するだけです。神殿の権限を奪う内容ではありません。抜け道を埋めるだけです」


「神殿が抜け道と呼ばれることを、承知しているとお思いで?」


「控えと封蝋の義務を嫌がる理由があれば、伺います」


 オルドは口を噤んだ。指先が手袋の縁に触れた。返す言葉を探しているのか、ただの沈黙なのか。私はその間に次の資料へ視線を戻した。


 あなたの沈黙は、今の私には関係がない。


 ヴィクトル様の応接間へ向かったのは、写しが3枚揃ってからだった。


 扉を開けると、彼はすでに同じ原稿を手にしていた。私の原稿より少し早く届いている。誰かが先に届けたのか、それとも別の経路で入手したのか——どちらでも今は問わない。


「通せますか」


「異論は認めない。彼女の手順に従え」


 短かった。それだけだった。


 ヴィクトル様は銀縁眼鏡の縁に1度だけ指を当て、卓上に帝国官印の押し型を置いた。


 私は息を止めた。


 力で神殿を押さえるのではなく、私の書いた条文を前に出す。それが今日彼の選んだ方法だった。大声でも、示威でもない。ただ印を押して、それで通す。私がどれほど条文を書いても、印がなければ壁は動かない。彼が押した瞬間に、紙が盾になる。


 それが分かった瞬間に、胸の奥で何かが揺れた。感謝でも、驚きでもない。もっと手前の感覚だ。信頼、という言葉が近いかもしれないが、それも少し違う。私の手順を正しいと判断して、それを前に出すと決めた、ただその事実が、じわりと染み込んでくるような温度だった。


「……ありがとうございます」


「礼は要らない。筋だろう」


 眼鏡の奥の灰色の瞳が、少しだけ動いた。何かを言いかけて止めたようにも見えた。だが私が問う前に、彼は写しへ目を戻していた。


 守り方を変えた、と思った。力ではなく手順で。私の手順で。そのことが、じわりと、胸の内側で形をとった。


 文書館の入口に神殿使者が来たのは、夕方前だった。


 白い上衣、無言。改定案の写しを両手で受け取り、目を通した。その間、ずっと何かを飲み込んでいる顔をしていた。


 最後に、振り返りながら言った。


「……別の儀礼が、必要になるかもしれませんね」


 私は表情を動かさなかった。


「手順が整ってから、ご連絡いたします」


 使者が廊下の角を曲がって消えた。私はその背中が完全に見えなくなるまで、その場に立っていた。


 「別の儀礼」という言葉が、頭の中で形を変えながら沈んでいく。検査で入れなければ、儀礼で入る。その先に何があるか、すでに輪郭は見えていた。「原本室」――その単語が意識を横切った瞬間、背筋の温度が数段階分だけ下がった。あそこへのアクセス権を、まだ誰も明文化していない。


 夜になった。


 執務室の蝋燭を1本だけ灯して、改定案の写しを3枚、机に並べた。同じ文面。同じ赤入れ。同じ条文。


 1枚目は監査局へ。2枚目は文書館の原本棚の、最奥の段へ。3枚目は――私が預かる。


 封蝋の紅蝋を炎に近づけると、ゆっくりと溶け始めた。滴が紙の上に落ちる。自分の印を押す。3通に、同じ印を。1つが消えても、残り2つが残る。証拠は輪が3つあって初めて、鎖になる。


 押し終えた3枚を並べて眺めた。


 穴は塞がった。手順は完璧だ。今夜の仕事は終わった。


 そう思おうとした、その瞬間だった。


 扉の外から、ヴァラン様の静かな声が届いた。


「リーデルハイト様。少し、よろしいですか」


 私は立ち上がった。扉を開けると、墨色の外套が廊下の影に立っている。その手に、1枚の紙を持っていた。


「今日、私が写した改定案と——同じ内容の紙が、もう1枚、外に出ています」


 私は息を吸った。


「……出どころは」


「分かりません。ただ、封蝋が」


 ヴァラン様は少し間を置いた。親指が、封蝋の縁を確かめるようにゆっくりと動いた。


「——ありません」


 机の上の3枚には、全部私の封蝋がある。今日作った3枚だけが、今夜この部屋にある。だとすれば、封蝋のない「もう1枚」は、私が作ったものではない。


 誰かが、私の手順が完成する前に、同じ紙を用意していた。

読んでいただき、ありがとうございます。


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