第32話 宣伝と現実の、隙間
神殿書庫の扉が開いたとき、私が最初に感じたのは、香草油の匂いではなく、紙の少なさだった。
棚は高い。装丁は立派だ。革の背表紙に金箔が押してある。それだけを見れば、百年分の歴史が詰まっていると思うはずだった。
書記のアデルが、両手で差し出した記録簿を受け取った瞬間、わかった。
軽い。
表紙の厚みと、中身の重さが合っていない。
「奇跡記録簿、全5巻を」
そう請求すると、アデルの目がわずかに泳いだ。綴じ糸に指が触れて、すぐ引っ込んだ。
「……第1巻から、どうぞ」
差し出す角度が、何かを隠しているようだった。私は受け取りながら、目だけで背の厚さを確かめた。全5巻で、帝国文書館の四半期報告より薄い。
1巻を開いた。
冒頭の奉納書には、派手な紋章と署名が並んでいる。次の頁からが本文だ。神殿での奇跡の記録——癒しの事例、験担ぎの成就、聖女の施しの詳録。
あるはずのものが、ない。
症例名がない。日付が飛んでいる。ひとつの奇跡の記述が3行で終わる。他の事例と照合するための参照番号が、どこにも振られていない。
綴じ糸のところで、頁が飛んでいる箇所があった。削除ではなく——最初から、綴じていない。
アデルが、その箇所に気づいた私の視線を察した。ほんの一瞬、手が動いて止まった。
「それは……書かれていません。最初から」
「では、記録されなかった、ということですか」
返答はなかった。扉の向こうで、靴音がした。
司祭長エルゼビオが入ってきた。香油の匂いと白手袋。微笑を口元に貼ったまま、声だけが低い。
「信仰を、文書で測るのですか」
「奇跡記録簿の確認を、お願いしているだけです」
「奇跡は、魂に触れるものです。紙に封じようとする発想自体が——」
「奇跡は、紙に嫌われているのですか」
私が言うと、一瞬静かになった。エルゼビオの微笑が薄くなった。白手袋の指輪が、ゆっくりと回った。
「……記録の管轄は神殿にあります。帝国の文書官が立ち入る事案ではない」
その言葉に、ヴィクトルが隣で小さく息を吐いた。何も言わなかった。言わないまま、私の視野の端で、眼鏡に指が触れるのがわかった。
私は記録簿を閉じ、一礼して書庫を出た。
胸の底で、何かが冷えている。怒りとは少し違う。正確にいえば、答えの形が見えかけているのに、まだ手元にない、という感覚だった。
神殿のすぐそばに、小さな書店がある。ヴィクトルが「少し寄る」と言ったのは、帰り道の角を折れたところだった。
棚のひとつを見て、私は立ち止まった。
神殿の宣伝冊子が、山と積んである。表紙に聖女の光彩を模した版画。「奇跡の記録——癒やされた百の魂」「信仰が拓く明日へ」「聖務院が認める、祈りの力」。どれも大きく、明るく、温かい題字だった。装丁は安価で、手に取りやすい。
1冊を手に取ってめくった。具体的な施術例。感謝の声。印刷の字が大きく、読みやすく、美しい。
記録簿の3行と、この冊子の密度は、同じ出来事を語っているとは思えなかった。
ヴィクトルが、棚から1冊を取り出して、静かに買った。会計が終わったところを、私は見ていた。
「……報告書ですか?」
彼は答えなかった。否定もしなかった。眼鏡の奥で目だけが少し横に逃げた。
「紙に嫌われるのは、嘘だけだ」
それだけ、小さく言った。
私は視線を冊子に戻した。表紙の版元印を、指でなぞった。小さな印だった。文字というより、紋様に近い形をしている。神殿印とは別の——寄進者を示す印だ、と気づくまで3秒かかった。指の腹が、その微細な凹凸の上で止まった。
夜、机の上に2つ並べた。奇跡記録簿の書き写しと、宣伝冊子。
記録簿の日付に、飛んでいる年がある。冊子の「癒やされた百の魂」の事例が、その年を多く含んでいた。記録が一番薄い時期に、宣伝が一番厚い。
語られるほど、紙には残らない。
売れるほど、証拠は薄くなる。
欠頁の綴じ糸の、あの引きつった間隔。アデルの指が触れてすぐ引っ込んだ動き。書庫の棚を埋める装丁の重みと、中身の空白の落差。
私は手帳に3行だけ書いて、封じた。
ならば——誰が、得をするのか。
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