第31話 聖女の光は、どこまで届く?
閉館の鍵を締めて、1分も経たなかった。
封蝋付きの巻筒が、文書館の受付台に置かれていた。持参した者は神殿の随員と思われる若い男で、白い衣に神殿印の刺繡が入っている。私が受付に戻った瞬間、彼は一礼もせずに出口へ向かった。筒の上に、薄い控えが一枚だけ乗っている。
たった一枚。
私は控えを持ち上げた。文書館への通知としては、異様に薄い。到着記録を取るまでの数秒、脳の一部が静かに騒いでいた。この薄さは、うっかりではない。
封蝋は神殿印だった。
禁術検査札——その文字を目で拾った瞬間、私の手が止まった。
封を破かずに、まず外側だけ確かめる。巻筒の胴に刻まれた番号は、帝国の書式とも魔法局の書式とも少し違う。桁が1つ多い。印刻が深い割に、製番台帳への参照番号が記されていない。昨夜イリヤが言った言葉が耳の奥に戻ってくる。
——神殿印、です。うちの局が発行したものではない。
私はひとまず筒を受付台に戻し、手帳を開いた。番号だけ写す。数字だけを、丁寧に、3回確かめながら。それだけしてから、封を切った。
本文を読んだとき、体の底で何かが冷えた。文面は丁寧だった。礼儀正しく、読みやすく、どこにも強制とは書いていない。ただ、「清めの儀礼に先立ち、原本室への立会い調査を実施する」という一行が、光の当て方によっては命令に変わる文言になっていた。
清め、という言葉が、調査、という言葉を飲み込んでいる。
原本室の前廊下に人の気配がしたのは、それから2時間後だった。
香油の匂いが先に届いた。次に、白手袋をした手が扉を押す音。司祭長と名乗った男は、年嵩で、声が低く、微笑むほど目元が動かなかった。随員が2人ついていた。1人がインクの染み込んだ廊下の空気に顔をしかめて、鼻の下を手の甲で押さえた。
「……窓、開けますね」
私は真顔で言い、壁の高窓を一枚だけ開けた。随員の顔色がどこか気まずい方向に変わった。司祭長だけが、微笑んだまま動かなかった。
「ご協力に感謝いたします、文書官長殿。神意に従い、清めをいたしましょう」
「控えを、先に確認させてください」
私の言葉に、一瞬の間があった。
「清めの手順は神殿が——」
「帝国文書館への立会い調査には、正式な控えが必要です。今夜の分を、いただきたいのですが」
声は穏やかに出た。礼儀の形を崩さないまま、手を差し出した。司祭長の指輪——神殿印の刻んである銀の環——が、ゆっくりと回った。一周。また一周。
「……後刻、届けましょう」
「ありがとうございます。では、本日の調査は控えが揃ってから、ということでよろしいでしょうか」
また間があった。今度は長かった。随員の1人が扉の方を見た。もう1人は視線を床に落とした。
「神意は、手続きを待ちません」
司祭長の声から、礼儀の表面だけが残り、その下の温度が変わった。光で測ると言いながら、実際には影でも量っている目だ、と思った。
「光で測るのですか」
私は言った。
「……なら、影も数えてください」
一瞬、司祭長の微笑が止まった。止まって、また戻った。私はそこで初めて、この人が控えを残したくない理由を理解した。
守りの札に見えて、実際は権限を削る装置だ。控えが薄いのは、薄いまま残すためではなく、残させないためだ。
廊下を引き返すとき、ヴィクトルが来ていた。
いつから待っていたのかは聞かなかった。彼の顔は、何かを計算し終えた後の静けさをしていた。眼鏡に一度だけ手が触れて、離れた。
「止められるか」
私が短く言うと、彼は首を振った。
「今夜は止められない。——ただ」
銀縁の眼鏡の奥で、何かが決まる瞬間があった。
「立会いは、取る。君に触れる権限は、誰にも渡さない」
公務の言葉だ、とわかった。わかった上で、腹の底に落ちた。
守り方が硬い、と感じた。鎖ではない。でも、今夜の私にはまだ少し、痛い温度だった。
休憩室に戻って、手帳を広げた。
番号刻印——巻筒に刻まれた数字を、もう一度最初から確かめる。帝国書式より1桁多い。参照番号なし。控えの用紙は標準の半分の厚みだった。薄さは偶然ではない。この薄さで作られているということは、複製を取りづらい素材を意図して選んでいる。
私は数字を3通の控えに写した。手帳に1部、別の封筒に1部、もう1部は今夜持ち帰る。同じ番号を3度書くうちに、指先の感覚が落ち着いてきた。これが私の手順だ。証拠は、誰かに残させてもらうものではない。
控えを封じながら、気がついた。
今日届いた検査札の控えが1枚しかなかったのは——最初から、残す気がなかったから。
では、この番号は誰が発行したのか。
神殿印の封蝋が、灯りの下でゆっくりと乾いていた。
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