第30話 次の一手——「神殿」の名が出た
夜の原本室前は、静かすぎる種類の暗さをしていた。
「クロイツ監査官。媒体の反応、ありました」
私が手燭を傾けると、壁際の錠前台座に小さな焦げ跡が見えた。封蝋の一片——指の腹ほどの大きさしかない——がほんの僅か浮き上がって、石の目地に食い込んでいる。刻印影写しの媒体だ。昨夜、保全箱ごと差し替えられたあの紙束と、同じ匂いがした。焦げた羊皮紙と、鉄分の混じった何か。
「……触れないでください」
イリヤが革紐付きの検査札を素早く差し出し、私の手首より先へ入り込んだ。
「先に記録を。場所、時刻、媒体の形状」
「承知いたしました」
私は手帳を開いた。封蝋片、楕円、短径およそ2センチ。台座から剥がれた痕は直線的で、工具を使っている。触れた者は手袋をしていた——台座の凹凸に引っかかるはずの爪痕がない。そこまで記録した瞬間、書庫の奥で足音がした。
重くはない。しかし急ぎすぎて膝が笑っている、という種類の足音だ。
「行きました」
イリヤが短く言った。追う動きをしたが、私は先に振り返って「導線記録を」と言った。
「実行役は後です。あの足音は、もう逃がしてあります」
「……リーデルハイト殿」
「ここで追えば、記録が途切れます。私たちの手は2人分しかありません」
イリヤの眉が一瞬だけ曇った。しかしすぐに検査札を指で弾き、「手順どおりに」と自分に言い聞かせるように呟いた。
私たちは30分かけて現場を記録し、媒体を保全箱に封印した。イリヤが蓋を押さえ、私が封蝋炉で熱した蝋を垂らす。凝固するまでの数秒、私は息を止めた——これが癖だと自分でも知っていた。封印という行為に、どこかまだ恐さが残っている。
保全が完了した。
そのはずだった。
監査室に戻って灯りをつけた瞬間、私の手が止まった。
机の上に、保全箱が置いてある。
私たちが今、手に持って戻ってきたものと——同じ形の箱が、2つある。
「……クロイツ監査官」
「見えています」
イリヤの声に、微かな怒りが混じった。彼は棚の鍵を確かめ、監査室の通行記録を引き出した。私は箱を2つ並べた。どちらも封蝋が押してある。どちらも官印の形が同じだ。
だが、角が違う。
私の指が右側の箱の角で止まった。僅かな折り癖——紙ではなく木箱の蓋の縁に、ほんの0.5センチほどの削り跡がある。綺麗に整えようとして、整えきれていない。この癖を、私は知っていた。許可札の束で初めて見つけた日から、ずっと知っている。
「中身が、入れ替わっています」
イリヤが確認作業を終えるまで、私は立ったまま何も言わなかった。本物の箱は空だった。
証拠は、守った人間の数だけ脆いのですね。
声に出すつもりはなかったのに、口から出ていた。
「……リーデルハイト殿」
「いいえ、愚痴です。記録の邪魔をしました」
私は手帳を広げ直した。「すり替え発見、時刻、箱の角の削り跡、封蝋の照合不一致。以上」と読み上げ、イリヤに手渡した。彼は黙って受け取った。
応接間でヴィクトルに報告したのは、それから1時間後だった。
彼は私の言葉を最後まで遮らなかった。報告を聞き終えて、1秒も経たずに立った。窓の方へ歩いて、そのまま止まった。銀縁の眼鏡に指が触れた——言いかけて、飲んだ、という動作だ。私はそれを黙って待った。
「保全箱に近づける人間の数を」
「監査室の通行記録で、3人です。全員が正規の通行札を持っています」
「正規の。……また、か」
低い声だった。怒りではなく、確認だ。彼は振り返って私を見た。
「君の写し封蝋は」
「2部保全してあります。1部は監査室、1部は別場所」
「別場所は、私に教えるか」
少しだけ迷った。教えても鎖にはならない、と今の私は知っている。ただ、まだ慣れていない。
「……後で」
「それでいい」
彼の声が、少し柔らかくなった。眼鏡から手が離れた。
「証拠の連鎖が一度断ち切られた。次は、形を変える」
「公的な誓約、ということでしょうか」
ヴィクトルは私を見た。何かを量るような視線ではなく、答えを持っていて、ただ言葉を選んでいる、という目だった。
「だから、守る人数を減らす。——君を、私の外側に置く」
外側、という言葉が、腹の底に落ちた。鎖ではなく、居場所を指す言い方だとわかった。まだ怖いかと聞かれたら、ゼロではないと答える。それでも今夜は、息が詰まらなかった。
「……承知いたしました」
私の返答は、いつもの口癖と同じ形をしていた。けれど今度は、逃げのためではなかった。
帰路の入口で、フェリクスが待っていた。
「閣下、帰り道に少し……寄り道を、と思いまして」
「今は黙れ」
ヴィクトルが一言だけ言った。フェリクスは一瞬だけ私を見て、何かを察して静かに後ろへ下がった。気の利きすぎる人だと、いつも思う。
石畳の上を、3人で歩き始めた。灯りが少ない。私の足音とヴィクトルの足音の間に、僅かな隙間がある。昨日より狭い、と気づいたのは自分の方だった。
腕に触れたのは、1秒にも満たない時間だった。指先で、軍服の袖の布に触れて、離した。声にはしなかった。彼も何も言わなかった。
ただ、歩く速度が変わらなかった。
それで十分だと思った——思いながら、私は頭の一部で今夜の記録を整理していた。すり替え箱の角の削り跡。折り癖の形状。正規通行札を持っていた3人の名前。そして、イリヤが最後に言った言葉。
「……押収した媒体の検査札に、少し妙なものが混じっていました」
彼は声を低くして言っていた。私の確認の目線に、眉を寄せて答えた。
「神殿印、です。うちの局が発行したものではない」
神殿。
その言葉が、今も石畳の上に置き去りにされている気がした。誰が呼んだのか。正規の許可を持った3人の誰かが手引きしたのか、それとも別の手が、もっと前から盤を並べていたのか。
明日の朝には、もう動いている。
禁術検査を「神殿」が握った——誰が、呼んだのか。
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