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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第4章 刻印模倣——鍵が狙われる

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第29話 追うほど遠ざかる証拠——猶予は短い

 今朝、イリヤ・クロイツ監査官が監査室の扉を開けた瞬間、私はその顔色だけで理解した。


「禁術検査の予定が、前倒しになりました。明朝です」


 空気が変わった——というよりも、部屋の温度が一段落ちた、という感覚だった。


「理由は」

「上からの命令です。理由は……示されていません」


 イリヤの指が、検査札を束ねる革紐を軽く弾いた。彼がそれをするのは、答えを探しているときではなく、答えを既に知っていて言葉を選んでいるときだ。


「……前倒しですか。嫌な匂いがしますね」


 私は答えなかった。答える代わりに、手元の証拠束を見た。台帳の写し、許可札の照合記録、封蝋の採取紙。昨夜まで積み上げてきたものが、今日の朝に「明日が期限」へと変わった。


「証拠の保全を、急ぎます」


 私の声は、自分でも驚くほど平坦に出た。



 自室の執務机に戻り、封蝋炉に火を入れた。携帯用の小型炉だ。旅先でも写し封蝋を作れるように、と帝都に来る前に誂えたものだった。まさかこういう使い方をする日が来るとは思っていなかったが、役に立つ道具は状況を選ばない。


 証拠束を1枚ずつ写し取り、蝋を垂らして封をする。封を押す前に、息を止めた。いつもの癖だ。気が散ると押し方が歪む。歪んだ封印は、後で「同じ手によるものか」を疑われる。証拠として提出するものは、完全に私の刻印で固めなければならない。


 2部作って、別の場所に保管する。1箇所が失われても、もう1箇所が残る。


 昨夜ヴィクトルと確認した手順だった。「写しと保全箱を分けろ」と彼は言った。指示というより、確認するような口調だった。私が同じ結論に至っていることを知っていたのかもしれない。


 許可札の束を紐で縛りながら、ふと手が止まった。


 王国からの帰還要請文の控え——正式保管したものを、念のため写しに加えておこう、と昨日考えていた。引き出しを開け、取り出して、1枚ずつ確認する。


 3枚目を手にとったとき、指の腹が何かを拾った。


 筆圧だ。


 帝国の文書に特有の書き方がある。語末の跳ね上がり、括弧の閉じ方、数字の3の書き順。王国の文書官が書けば、こうはならない。ならないはずだ。なのに、この1枚の筆圧は——。


 確信が、ゆっくりと胸の中で形になった。


 王国の要請文に、帝国の手が混じっている。



「内側が紛れています」


 原本室前の廊下で、私はヴィクトルに言った。警護の配置を確認に来た彼の足が、一瞬だけ止まった。


「警護の配置に問題があるのではありません。——警護を選ぶ手続きに、問題が紛れている可能性があります」


 彼はしばらく黙った。銀縁眼鏡に指を当てて、すぐに外した。


「根拠は」

「王国要請文の控え3枚目。筆圧の異質な1枚があります」


 私は声を抑えたまま続けた。原本室の入口には今も監査官が立っている。ここで私たちが話すのは2人だけにしなければならない。


「証拠を見せろ」

「写し2部のうち1部に加えました。もう1部は別の保管場所に」

「……手順どおりだ」


 また短い沈黙。彼が再び眼鏡に触れかけ、止めた。


「怖いか」


 予想していなかった言葉だった。答えるよりも先に、自分の胸の内が先に動いた。


 怖い。当然、怖い。証拠が明日の検査で消えるかもしれない。内側の手がどこまで伸びているか、まだ全部見えていない。明日の朝が来るまでに、私たちが気づいていない手が動くかもしれない。


「……はい」


 言ったことで、少し楽になった。



 書庫に戻り、目録の照合を続けていると、フェリクスが足早にやってきた。


「閣下、書類です」


 腕いっぱいの伝令封筒だった。息を切らしながらも姿勢だけは崩れていない。私の机の端に1通だけ置き、残りをそのまま抱えて廊下の奥へ消えた。


 封を確認してから目録へ戻る。手が自動的に動いていた。台帳の空白ページ、差し替え跡、紙質の差異——確認事項を1つずつ消しながら、次へ進む。


 42番の棚、17列目の目録に、ふと視線が引っかかった。


 紙質が、違う。


 同じ棚の中に、明らかに製造年の異なる紙が混じっている。触れればわかる微細な差だ。文書官として働き始めた頃から、指が勝手に拾うようになった感触だった。


 目録番号を確認する。空白欄との照合を頭の中で走らせ——一致した。第27話で監査印を押した、あの空白欄の番号だ。


 息が止まった。


 これは、差し替えられている。


「……燃やされるのは、紙ではありません」


 声が出た。誰もいない書庫の奥で、独り言のように。


「——因果です」


「なら、因果ごと守れ。君の手が震えない形で」


 振り返ると、ヴィクトルが書庫の入口に立っていた。いつから聞いていたのかはわからない。



 夕刻の鐘が鳴った。


「文書官長殿、本日は定時……ですが」


 文官の1人が、遠慮がちに声をかけてきた。確かに今日は定時を越えている。


「今日は越えます」


 言った瞬間、廊下の奥からヴィクトルの気配が動いた。見なかったが、なぜか満足そうな沈黙だったのが伝わった。フェリクスが小さく咳払いをして、何も言わなかった。


 差し替えの証拠を写し取り、封蝋で固めながら、私は今日一日を頭の中で整理した。


 検査が前倒しになった。外圧が、検査を動かしている。明日の朝、その検査が何を狙っているかは——まだ確定していない。


 証拠を守るための検査か。


 それとも、証拠を消すための検査か。


 帰り際、ヴィクトルが廊下の角で待っていた。特に何も言わなかった。ただ並んで歩いた。1歩の間隔が、いつもより少しだけ近かったかもしれない。


「明日、終わったら」


 私は言いかけて、止めた。


 彼も何か言いかけて、止めた。


 どちらも無言のまま出口を抜け、夜の空気の中に出た。


 明日の検査で、消されるのは証拠か——私の信用か。


読んでいただき、ありがとうございます。


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