第28話 理由を言いかけて、飲み込んだ
原本室の扉の前に、焦げた匂いが漂っていた。
木材でも紙でもない。もっと芯のある、乾いた焦げだ。空気そのものを削るような、禁術が灼く匂いを、私は記録の中でしか知らなかった。実物は違った。喉の奥が縮む感覚がある。鼻から肺へ直接、不吉が落ちてくるような匂いだ。
人影が扉の前で止まっていた。
「止まれ」
イリヤ・クロイツ監査官の声が廊下に走った。
私は書架の陰から出なかった。計画通りだ。囮の許可札を流して2時間、ようやく食いついた手が、今ここにある。——捕まえた、と思った瞬間、胸の内側で何かが静かに警告を鳴らした。
こんなに早く出てくる「手」は、捨てられる前提で動いている。
囮の仕掛けは、夜の書庫裏から始まった。
私の手の中に許可札が7枚あった。本物と紙質まで揃えた偽物で、角の形だけが微妙に違う。誰かが食いつけば、持ち方に癖が出る。私はそれを見たかった。
「流し方は?」
「通常の導線に混ぜます。ただし——」
1枚を灯りに透かしながら、私は続けた。
「——食いついた手がどんな角度で持つか、見てください。癖が出ます」
監査官の目が、一瞬だけ動いた。
「文書官長殿は、紙を読みますね。文字より先に」
私は何も答えなかった。答える必要がなかったから、ではない。肯定すると、自分がどういう人間か説明することになるからだ。
書庫の奥で、誰かが灯りを消した。合図だった。私は羽ペンを上着の内側へ差し込み、じっと廊下の角を見た。石畳の冷気が足首から上がってくる。それでも動かなかった。
30分が経った頃、遠くで足音が変わった。
捕まえた人物の名は、ラウル・ケンプ。文書館の下働きで、顔は見知っていた。台帳の端に名前があった人間だ。指に薄い火傷痕がある。紙を持つ手が必要以上に丁寧だ、と以前から思っていた。
取調室は狭く、臭いが籠もった。彼は「知りません」を繰り返したが、監査官が封蝋の欠片を机の上に置いた瞬間、声が途切れた。指が膝に押しつけられ、目が逸れた。
「……俺は、言われたとおりに」
「誰に?」
返事がない。ただ、彼の呼吸が変わった。嘘をつこうとする人間の呼吸ではなかった。名を出すことを恐れている人間の、沈黙だ。その種類の違いが、最近分かるようになってきた自分が、少し嫌だった。
「名を出したら、俺の方が先に死ぬ」
静かな一言だった。脅しでも懇願でもない。ただの事実として、口から落ちた言葉だった。
私は手の中の羽ペンを、そっと机に置いた。
彼から受け取っていた記録書が手元にある。取調前に渡された書類だ。何となく、端の角を指で撫でた。
——折り癖があった。
私が2週間追ってきた、あの折り方と、同じだ。
彼の癖ではない。彼はこの書類を「受け取った」のだ。渡した側の手が、もうここに刻まれている。証拠は繋がっていた。しかし黒幕は、まだ影の中にいる。捕まえた、と思ったのは早計だった。駒を1つ拾っただけだ。
取調が終わりかけた頃、ラウルが突然、顔を上げた。
「……検査札。神殿の……そんなの、聞いてない」
独り言のように呟いて、また俯いた。意味を問い返す間もなく、監査官が立ち上がった。検査札という言葉だけが、取調室の空気の中に残った。
書架間で、ヴィクトルと向き合った。
他の人間はいない。監査官は保全の手続きに入り、フェリクスは廊下の外だった。棚が高く、遠くの灯りが届かない場所だった。
「捕まえました」
「知っている」
「でも終わりではありません」
「知っている」
彼は答えながら、書架の列を見ていた。私と目を合わせなかった。
私の口の中に、言葉が積み上がっていた。飲み込んで、また積もって、また飲み込んだ。
——この捜査を通して、私は何度も同じ問いに戻る。刻印を守るために始まった調査で、私は守られているのか。それとも「守られる形に収められている」のか。国家の設計に組み込まれた鍵として、丁寧に配置されているだけなのか。
どちらかが今夜、答えを出す必要があった。
「……閣下」
ヴィクトルが初めて、私の方を向いた。
「私の価値が鍵なら、あなたは条約を選ぶはずです」
沈黙が落ちた。
私はその沈黙の中で、返事が来ないことを覚悟した。政治の人間は答えを先送りにする。私はそれを5年間で学んでいた。だから声が震えなかった。震えなかったことが、少し悲しかった。
「選ばない」
一言だった。短すぎた。それだけでは信じられない、と思う暇もなく続きが来た。
「——だが今は、それを証明する言葉が邪魔だ」
意味が半分しか分からなかった。政治の理由なのか、別の何かなのか。あるいはその2つが絡まっているのか。
ヴィクトルの手が、一度だけ眼鏡の縁に触れた。
何かを言いかけて、止めた。それだけは見えた。
帰路、夜の石畳に2人分の足音が続いた。フェリクスは3歩後ろを歩いている。気配を消した距離の保ち方が、心なしか上手くなった気がする。
「報告書は」
私はふと口を開いた。
「主語から逃げません」
ヴィクトルの歩みが一瞬止まった。
「……何の話だ」
「先ほどの証言です。俺は言われたとおりに——主語がありません。受け取った側は書かない。渡した側だけが、言葉の形を知っている」
彼は何も言わなかった。
けれど横を歩く足音が、ほんのわずかだけ速くなった。私はそれを見なかったことにした。
宿舎への分かれ道で、ヴィクトルが立ち止まった。
言いたいことがある、と気配が先に言った。私も止まった。石畳の継ぎ目を、何となく見下ろした。
取調で出た言葉が、頭の奥で繰り返されていた。神殿の検査札。ラウルは「聞いていない」と言った。しかし誰かは知っていた。誰かが、そこまで盤を広げていた。
模倣は段階式だ。最初の扉に触れ、次は中へ入ろうとする。駒が1つ潰れても、黒幕は次の手を持っている。
猶予は、ない。
「……明日」
彼が口を開いた。
「次の一手が、明日だとしたら」
問いではなかった。確認でもなかった。
まるで、私に聞かせるために声に出した言葉のような、言い方だった。
銀縁眼鏡の奥で、何かが動いた気がした。
その「何か」に、私はまだ名前をつけていない。
読んでいただき、ありがとうございます。
よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。




