第24話 折り目は、嘘をつかない
最初の1枚を手に取ったとき、指の腹が引っかかった。
書架の前に立って3時間、私はずっとその感触を追っていた。帝都文書館の開館前の静けさ。窓の外がまだ白く、遠くで鐘の音が2つ鳴ったばかりだ。
問題は単純だ。「正規の許可札」に、誰かの癖が残っている。
昨日の照合不一致は、刻印の記録に出ていた。鍵は回った。だが記録が違う。外部侵入かと思いきや、手続きは正規だった——つまり、内側の手だ。
ならば、許可札を全部見ればいい。それだけのことだ。
1枚、また1枚。私は束から引き抜くたびに、角を確認する。書類の角というのは、持ち主の癖が残る。丁寧に四角く揃える者、わずかに折り返す者、まったく気にしない者。どれも、その人間が紙にどう触れてきたかの蓄積だ。
7枚目のとき、止まった。
右下の角が、内側へ三角に折り込まれている。折り返し幅は、私の人差し指の第一関節ほど。ためらいのない、習慣の折り方だ。
次の1枚を引く。同じ。
また次。同じ。
喉の奥で、何かが静かに落ちた。
このなかで同じ手が触れている。
証拠の薄い推測が、急に輪郭を帯びた瞬間だった。
「折り返しは7枚、連続。間に別の手のものが3枚混じります」
イリヤ・クロイツ監査官が、執務机を挟んで私の報告を書き取っている。革紐で束ねた検査札が卓上に置かれ、彼の指がそれを一度弾いた。
「……一致の強度は?」
「角を揃える人間は、揃え方を変えません。折り幅も方向も一定です。筆跡鑑定と同等の確度はあります」
彼が眉を上げた。その目が、一段だけ変わったのを見た。外様への警戒から、捜査の共同戦線へ、一瞬で切り替わった目だ。
「……許可書式の日付と照合しますか」
「すでにしています。7枚全部、同じ2週間の窓に入ります。そのうち4枚は、原本室への入室申請です」
沈黙が落ちた。
「書類を」と彼は言った。手順どおりに、粛々と。
私は束を揃えて差し出す——揃える癖は、止められない。
応接間に入ったとき、ヴィクトルはすでに立っていた。
窓際で報告書に目を通していた彼が、私の顔を見た瞬間に表情を変えた。銀縁眼鏡の奥の灰青の目が、一秒で状況を読む。
「証拠が取れたか」
「……まだ、証拠ではありません。しかし、絞れます」
彼が書類を机に置いた。迷いのない動作だ。
「捜査の範囲を拡大する。監査課に人員を追加して——」
「お待ちください」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
ヴィクトルが止まる。
「拡大すれば、相手も動きます。今、範囲を広げるのは得策ではありません。私がやっているのは、証拠の連鎖を切らせないための地道な照合です。人員が増えれば、相手に動きを知らせるのと同じです」
「だが、君一人では——」
「クロイツ監査官がいます」
短く言い切った。ヴィクトルが一瞬、眼鏡に触れた。言いかけた言葉を、飲んだ気配がした。
私は続ける。
「監査の範囲を広げる必要が生じた場合は、私から申請します。その手順を踏ませてください」
応接間の静けさが伸びた。
彼は決断が速い。だからこそ、こちらの次の言葉を聞かずに動く。守るために制度と権限を即座に引き出す。それ自体は、ありがたい。
ただ。
私はもう、動かされる鍵ではない。
「……承知した」
ヴィクトルが言った。静かで、思ったより早かった。
「君が申請するまで、待つ」
それだけだった。言い訳も、説明も、ない。
喉の奥で何かが緩んだ気がした。それに気づかないふりをして、私は一礼した。
休憩室の前を通ったとき、中から声が聞こえた。
「……本当に全部、素手で確認してるのか、あの方」
「3時間で120枚以上らしい」
「怖くないか? 顔、変わらないんだが」
「変わってないのがまた……」
私は立ち止まらなかった。ただ、廊下の壁際を歩きながら、手の中の書類の角を、無意識に揃えていた。
午後、休憩室で若い文官がまとめた申請書を持ってきた。角が全員微妙に不揃いだ。
「確認を……お願いします」
「ありがとうございます」
受け取って、すぐに気づいた。1枚、右下の角が折れている。別の癖ではなく、運ぶ途中でついた折れ方だ。
「……角、揃っていません」
私は書類を返した。相手が目を丸くする。
「あ、あの、内容の確認だけで——」
「揃えてから出してください。提出先が監査官でも同じです」
なぜか文官が謝った。ぺこぺこと、2回も。
書類は関係ない。習慣の問題だ。揃える人間は角で嘘をつけないし、折れたまま提出する人間は折れたまま覚えている。どちらが良いという話ではなく、人は癖を変えない、という話だ。
夕刻になって、私は自分の机に戻った。
今日の成果を封蝋で綴じながら、傍らに置いていた別の書類に目が止まった。
王国からの帰還要請文だ。正式な封蝋付きで、2日前に届いていた。読んで、棚に置いて、後回しにしていたものだ。
再度、手に取る。
文体は丁寧だ。丁寧すぎるほど。接続詞の選び方が、妙に角張っている。「なお」「以上」「ご要望は」——繰り返す形式言葉の並びが、どこか機械的だ。
ページをめくって、文末に目を向けた。
右下の余白の整え方が、均等すぎる。
私の指が、止まった。
帝国の許可書式と、王国の要請文。文書の種類は違う。出所も違う。
それなのに、文末の余白の「整え方」が、同じだ。
文書を揃える訓練は、人によって出所が違う。帝国様式で学んだ者は帝国の癖がつく。王国様式で学んだ者は王国の癖がつく。
では、この王国の要請文を書いた者は——どちらで学んだのか。
窓の外が暗くなっている。
私は小型の封蝋炉を取り出して、要請文の写しを作り始めた。焰を灯す前に、息を止める。いつもの癖だ。
封蝋が溶ける細い匂いが立ち上る中、廊下に足音が聞こえた。
ドアを叩く音。フェリクスの声だ。
「文書官長殿、閣下が——」
入り口に立ったヴィクトルが、私の手元を見た。
焰と、写しの書類と、王国の要請文が並んでいる。
彼はすぐには何も言わなかった。それから、静かに言った。
「……その文、いつ届いた」
「2日前です」
「なぜ今」
「今日、気づいたからです」
また眼鏡に触れる。言いかけた何かを、また飲んだ気配がした。
「写しは作れるか」
「今、作っています」
「なら、続けろ」
それだけ言って、彼は部屋の端の椅子に座った。退室する気配がない。
私は封蝋を押し始めながら、その重さをどう受け取るべきか少しだけ考えて、やめた。
お願い申し上げます、の結びが、別の書類にも混じっていた——気がする。
その「気がする」が、明日、事実になるか。
私は封蝋を押す前に、もう一度だけ、息を止めた。
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