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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第4章 刻印模倣——鍵が狙われる

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第23話 鍵ではないと言う前に、手が伸びた

 開館の鐘より15分早く、扉が震えた。


 厳密には震えた、ではない。封印棚の警告札が、橙色に滲んだのだ。静かに、しかし確実に。インクが水を吸ったときのように、色だけが広がって、意味だけが急いで届く。


 私は手を止めた。


 帝都文書館の西側、封印棚区画——ここに立ち入れる者は、許可札を持つ文官と、原本室の鍵を預かる私だけのはずだ。警告札が橙に変わるのは、刻印照合が一致しなかった場合のみ。


「……おかしい」


 声は出さなかった。ただ、胸の中でそう思った瞬間、昨夜まで正常だった棚の顔が、ひと晩で別の顔になっていた。




 原本室の前まで来ると、イリヤ・クロイツ監査官がすでに立っていた。指先に革紐を巻きながら、検査札を束の中から一枚抜き出している。


「リーデルハイト文書官長。鍵は試しましたか」


「まだです。——しかし、警告札は確認しました」


「では、今から記録を取りながら試錠を」


 私は懐から原本室の鍵を出し、錠前へ差し入れた。滑らかに、あまりにも滑らかに、回った。


 引っかかりはない。抵抗もない。


 それが、怖かった。


「……鍵は回りました」


 自分の声が、想像より低かった。


「だからこそ、怖いのです」


 イリヤ監査官が目を上げた。目の奥がすっと細くなる。

「照合記録を出してください。開錠ログの直近3日分」


 台帳を広げると、2日前の夜の欄に、薄い異常があった。刻印照合の数値が、コンマ1だけずれている。刻印の模倣が不完全なまま試みられた痕だ——それ以外に説明がつかない。


「内部ではなく、外部からの侵入でしょうか」


 私が聞く前に、イリヤ監査官が首を振った。

「許可札の記録を見てください」


 通行台帳の該当欄に、正規の許可手続きで発行された番号が記されていた。書式は完全に整っている。捺印の位置も、発行日の欄も、何一つ欠けていない。


 正規の手続きで、誰かが入った。


 外から破ったのではなく、中から開けた。


 棚の縁に手をついたとき、鍵穴の側面にほんの小さな補修痕があるのが見えた。古い傷で、蝋で埋めた跡がわずかに盛り上がっている。ここの錠前は、何年か前に直されている——どこかで同じ細工を見た気がして、私は記憶の端を引いたが、今はそれどころではなかった。




 午後、ヴィクトル閣下の執務室へ報告に上がった。


 端的に伝えた。照合ずれ。許可札の正規番号。外部侵入より内部手続きの臭い。


 閣下は最後まで聞き終えないうちに、銀縁眼鏡へ指先を添えた。


「警護を付ける。監査権限を拡大する。今日中に手配する」


 早かった。決断の速さは知っていたが、今日は特に早かった。


「……閣下、まだ外部犯の線も」


「外部でも内部でも、結論は同じだ。君に触れる前に折る。——指一本、許さない」


 声が低かった。怒っているのか、心配しているのか、その区別がうまくつかない。


 ただ、胸の内側に、細い棘が刺さった。


 守る、という言葉の形をした、鍵としての扱い——そう感じてしまった自分を、私は即座に飲み込んだ。


「……承知いたしました」


 口癖が出た。閣下が眼鏡から指を離した。何か言いかけて、止めた。


「何か言いたいことがあるなら」


「……ない。報告は以上か」


「以上です」


 私はお辞儀をして、部屋を出た。廊下に出てから、少しだけ足が止まった。


 守られることが怖い、ではない——と、自分に言い聞かせた。これは感情の問題ではなく、証拠の問題だ。内部の手が動いているなら、警護の強化案が漏れることも、想定しなければならない。私がすべきことは、感情を抱えることではなく、通行札の束を一枚ずつ確かめることだ。




 回廊に戻って、通行台帳を開き直した。


 許可札を1枚ずつ、指先で撫でながら確かめる。発行番号、捺印の位置、紙の厚み。9枚目を捲ったとき、指が止まった。


 角が、折れていた。


 ほんのわずかに、まるで書類を重ねるときの癖のように、右下の角だけが一度折られて戻された跡がある。紙の繊維が白くほつれている。誰かの手の癖だ——私が書架の間で何千枚と扱ってきた紙の中で、これは自然な折れではない。


 意図がある。


 あるいは、無意識に繰り返されている、誰かの手の癖だ。


 私は台帳を閉じた。外部犯の仕業だと思わせるほど整った許可手続き——しかし、この折り癖は、内部の誰かが関わっていなければ残らない。


 盤面が、また変わった。




 夕刻、入口のほうが少しざわついた。


 文官が数人、顔を見合わせている。


「……また公爵閣下が、定時の鐘より先に」


「見なかったことに」


「ええ、見なかったことに」


 三人が同時に下を向いた。私は書類を抱えて通路を横切りながら、見なかったことにした。そういう慣習が出来上がりつつあることは、薄々知っていた。


 廊下の角を曲がると、フェリクスが小走りで来た。

「リーデルハイト文書官長。閣下から、今夜の通行札の写しをお渡しするようにと」


「……ありがとうございます」


「——それと」

 フェリクスが一瞬だけ声を落とした。

「写しの中に、一枚だけ角が変なものがあります。閣下はご存知ないとのことで、私もよく……」


「確認します」


 受け取った束の中で、指先が止まった。


 あの折り癖と、同じ形。


 誰が、何のために——正規の許可札に、この手の跡を残したのか。


読んでいただき、ありがとうございます。


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