第22話 偶然なら、なぜ形が揃う?
机の上に空白が並んだとき、最初に思ったのは「美しい」だった。
整然と抜き出した28枚の控え。それぞれに番号と分類記号、収蔵棚の位置を書き込み、一直線に横へ広げていく。窓の外では日が傾き始めていた。
「……F棚が、17。H棚が、11」
声に出すと現実になる。28枚のうち、28枚全てが2つの棚に集中していた。偶然なら散る。確率は私が試算するまでもない。
「F棚とH棚の共通点を」
背後から声がした。ヴィクトルだ。いつ入ってきたのか、私は気づかなかった。
「……共通点は、分類記号の頭文字がいずれも『条約関連』です。F棚は旧条約原本の副本群。H棚は――」
「外交交渉の一次記録」
私の言葉を引き取り、ヴィクトルは無言で控えを取り上げた。手早く写しを作り、取り出した封蝋を迷わず押す。一枚、また一枚。私が次を差し出せば、彼はそれを封じる。説明もない。許可を求めることもない。ただ、残す。
その速度に、胸の奥が少し痛くなった。
痛い、と気づいた時にはもう、私は控えの次の一枚を差し出していた。
書架列へ向かったのは日が完全に落ちる前だった。灯架に火を入れ、F棚から順に確認していく。
「ここ」
私が指さすより先に、ヴィクトルが棚板の角を指先でなぞっていた。
微細な擦れがある。棚札の下縁の、ほんの2ミリほど。H棚でも同じ位置に、同じ幅の擦れが残っていた。
「同じ人間が、同じ道具を使った」
私は声を落とした。そうとしか言いようがなかった。棚札を貼り直すとき、剥がした際の負荷が一定の方向にかかっていた。左利きの、慣れた動作。昨夜確認した糊の匂いが指先に蘇る。
「控えに写します」
「先に写真を――いや、ここでは無理か」
ヴィクトルが一拍置いて、自分の手帳に寸法を書き留めた。私も同じことをした。二人で同じ数字を記録する。誰かが一方を潰しても、もう一方が残る。
それが怖かった。
「潰される」という可能性を、私は当たり前のように計算している。帝国文書館に来て、まだ数日しか経っていないのに。
主任文官のカリッテに声をかけたのは事務卓に戻る途中だった。
「空白棚について、お聞きしたいことが」
「ああ、あの件ですね」
カリッテは微笑んだ。穏やかな、崩れようのない笑顔だ。45年この館で働いてきたという自信と、それと全く同じ形の壁が、その笑顔の裏にある。
「偶然でしょう。条約関連は異動の多い分類ですから、欠けも出やすい。棚札の貼り直しも、年次の整備作業で」
「整備作業の記録はありますか」
「……記録は。まあ、口頭指示でしたので」
「口頭」
私はただ繰り返した。それだけでカリッテの笑顔の縁が、ごくわずかに引き攣った。
「では、整備を担当された方のお名前は」
「それは……確認してみないと」
「承知しました。確認の際には、私宛に書面でお知らせいただければ」
カリッテが答える前に、私は軽く会釈をして踵を返した。
廊下に出てから、ヴィクトルが私の隣に並んだ。
「言わなくていいのか」
「何を」
「偶然ではないと」
私は少し考えた。
「偶然なら、ばらけます。――揃うのは手です」
ヴィクトルは何も言わなかった。ただ眼鏡のフレームに軽く触れて、視線を前に戻した。
休憩室で台帳を広げたのは、閉館の鐘が鳴ってからだった。
19話の会議のあと、私は資料の角に奇妙な折れを見つけていた。四分の一ほど折り返した、必要性のない折り目。その折り目を、今日の空白リストの控えと並べた。
同じだった。
折る角度が、折り返しの幅が、紙の繊維の潰れ方が。
会議資料を作ったのはカリッテの部下だとされているが――この折り癖は、誰かが確認済みの証拠として折る癖があることを意味する。条約関連の空白に、会議に、同じ手が触れている。
呼吸が止まった、と自分で気づいた。止まった息を、静かに押し出した。
「……セレスティーヌ」
ヴィクトルが私の名を呼んだ。その声音が普段と違った。
「顔色が悪い」
「悪くない、と思います」
「悪い」
断言された。反論が喉の先で止まる。
「敵は外にいる方が、まだ楽でしたね」
声に出してから、少しだけ後悔した。弱音だと思ったからではない。言ってしまえば本当になる、と思ったからだ。
ヴィクトルは何も言わなかった。ただ新しい封蝋を取り出し、折り癖を写した控えの端を静かに押さえた。
「……仕事の速度で愛情を示さないでください」
気づいたら声に出ていた。ヴィクトルの手が止まった。私も止まった。
数秒の沈黙の後、ヴィクトルは何事もなかったように封蝋を押した。私も何事もなかったように控えを整えた。耳が熱かった。
夜の廊下は静かだった。
最終確認のため書架列を通ったのは私の習慣だ。昨日貼り直された棚札が今日はどうなっているか、それだけを確かめるつもりだった。
灯りをかざした瞬間、足が止まった。
F棚の錠前に、見覚えのない刻印が残っていた。
金属表面に浅く刻まれた、小さな紋様。帝国文書館の公印ではない。私が帝都に来て以来使った刻印でもない。
今夜、誰かがここを開けた。
開けようとして、自分の刻印を押しつけて――失敗した跡だ。
私はその刻印を手帳に写した。手が震えていないことを確認しながら、一画ずつ正確に。
廊下の向こうから足音がする。ヴィクトルがこちらへ歩いてくる。
私は手帳を閉じ、錠前から目を離さなかった。
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