第21話 定時の入口に、毎日いる理由
定時の鐘が鳴った瞬間、私の手が止まった。
目録台帳の3列目を繰っていた指先が、音の波紋に触れるように、ぴたりと動かなくなる。不思議なことだと思う。5年間、鐘の音で手が止まったことなど一度もなかった。王宮の禁書庫では、閉館後も残業が当たり前だったし、そもそも「定時」という感覚自体が薄かった。
それが今は、鐘の最後の余韻が消える前に、私の体が先に知っている。
今日も、あの人は外にいる。
自分でも馬鹿げていると思いながら、台帳を丁寧に閉じ、封蝋入れを引き出しの奥へ押し込んだ。隣の席で控えを写していた若い文官のディーが、ちらりとこちらを見た。目が合うと、彼は何も言わずに視線を逸らした。その横顔が、微妙に緩んでいる。
廊下に出ると、すれ違った2人の文官が小声で何か言い合っているのが聞こえた。
「今日も……」
「今日もだ……」
聞こえていない、という顔をして、私は少し歩幅を速めた。
文書館の正面玄関は、石の柱が3本並ぶ古い造りをしている。その柱の、いちばん右側の影のところに、ヴィクトル・ノヴァルティス公爵は毎日立っていた。軍服の銀縁眼鏡に夕日が反射して、遠くからでも分かる。当然のような顔をして、手に書類を持って、まるでそこが彼の定位置であるかのように。
私が階段を降りると、彼は視線を上げた。それだけだった。「やあ」も「お疲れ様」もなく、ただ私を確認したように一度まばたきをして、それから歩き出した。並んで歩くのが当然、とでも言いたげに。
周囲の目が増えていることは、分かっている。
文書館の前で帝国公爵が部下を待っているなど、どう考えても異常な光景だ。最初の3日は「護衛の確認では」と囁かれた。次の3日は「改革の指示では」という声が出た。今週に入ってからは、もう誰も言い訳を探していない。ただ数えているだけだ。今日も。今日も。今日も。
石畳の帰り道に入ったところで、私は口を開いた。
「……勤務監視ですか」
ヴィクトルの歩みは止まらなかった。ただ、一拍だけ、返事が遅れた。
「……違う」
「では何故、毎日」
「……」
また間があった。今度は少し長い。眼鏡の縁に指が触れるのが、視界の端に映った。彼がその仕草をするとき、何かを考えているか、何かを飲み込んでいるか、どちらかだということは、もう知っている。
「外からの目が、増えている」
それだけ言って、彼は前を向き続けた。
私は一度、返事をしなかった。石畳の継ぎ目を数えながら、その言葉を頭の中で展開した。外からの目。改革に反発する内部の勢力。そして、文書館の周辺で増えている不審な照会。帝国公爵が毎日迎えに来るという事実は、それ自体が「触れると外交問題になる」という圧力になる。
迎えは束縛ではなかった。
私がそう気づいたのは、この一文を頭の中で完成させた瞬間だった。迎えは、公務として記録に残せる「動線」だった。誰かが私を孤立させようとするなら、毎日同じ時間に公爵と連れ立って歩く記録が、それを妨げる。噂は盾になる。目撃は証明になる。
守られていた。ただし、それを説明されたことは、一度もなかった。
「……そういうことは、最初から言っていただけると助かります」
声が少し低くなった自覚はあった。
「言えば」とヴィクトルが言った。「あなたは断ったでしょう」
「……断りません」
「断らなかったとしても」彼は眼鏡に再び触れた。「自分の足で立てると証明しようとする。そういう人だ、あなたは」
返す言葉が、なかった。
石畳が路地に変わる手前の角で、ヴィクトルの歩みが少しだけ緩んだ。夕方の光が建物の陰に切り取られ、石畳だけが橙色に染まっている。彼は正面を向いたまま、眼鏡の縁から指を離した。
「一つ……」
声の質が、変わった。
業務の声ではなかった。交渉の声でもなかった。私は思わず、彼の横顔を見た。耳の付け根が、わずかに赤い。眼鏡を外しかけて、止めていた。
「一つ、聞いてもいいですか」
彼の口が、次の言葉を作ろうとした。
その瞬間、路地の奥から駆け足の音がした。
「公爵閣下」
伝令の若い兵士が、息を切らして角を曲がってきた。革製の鞄から封筒を取り出し、両手で差し出す。封蝋が赤い。定型の星紋。私はその紋を一瞬見て、目を逸らした。
「至急の書簡にございます。差出は……」
ヴィクトルは一歩前へ出て、封筒を受け取った。背中が、一度だけ強張るのが見えた。
「分かった」
それだけ言って、封蝋を確認する。私には見せなかった。見せる必要がないと判断したのか、見せたくなかったのかは、分からない。
「今夜は戻る。護衛を一名、文書館の方向に回せ」
「はっ」
伝令が去ると、ヴィクトルは封筒を内ポケットへ収めた。眼鏡を静かに直す。交渉の顔が、戻っていた。
「今夜の帰りは別の道を使ってください。護衛が付きます」
「……承知いたしました」
私は頷いた。彼は頷き返さなかった。ただ、少しの間だけ私を見た。さっき「一つ」と言いかけた言葉の続きを、視線で測るように。
測って、飲み込んだ。
「では」
「……では」
足音が遠くなる。私は動かずに、石畳の橙色が薄れるのを見ていた。
一つ、聞いてもいいですか。
その続きが、何だったのか。
理由を。——と言おうとしたのかもしれない。毎日ここにいる理由を。あの台詞の続きを、言おうとして、止めた。止めた理由を、彼は持っている。
私は台帳を抱え直し、護衛が来るのを待ちながら、頭の隅で別のことを考えていた。
封蝋の、定型の星紋。赤い蝋の中の刻印。どこかで、見たことがある気がした。文書館の回覧文書の中で、あの紋は。
思い出せないまま、夜が来た。
その夜、一人で目録室に戻った私は、回覧の台帳を開いた。
先週の日付。そして先々週。あの星紋は。
指がある行で止まった。
同じ定型句が、3通並んでいた。差出の書式が、全部同じだった。
言えなかった理由が、今夜——記録の中で先に口を開く。
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