第20話 初めてのありがとうは、胸に刺さる
書架の4列目を整理し終えた時、指先に微かな達成感が生まれた。
それを、私はすぐに潰した。
感情に任せて手が緩む。記録の仕事では、それが一番の失敗に繋がる。5年間、王宮禁書庫でそう学んだ。褒め言葉も達成感も、後で受け取ればいい。今は次の棚だ。
「分類符号はこちらでよろしいでしょうか」
隣に並んだ若い文官――クレフス、と名札に書いてあった――が、小さな声で確認した。昨日までは私の問いかけに視線をそらしていた青年だ。今朝は棚の前で待っていた。それだけで、何かが動いたのだと分かった。
「合っています。この符号で統一すれば、関連文書が一直線に並ぶ」
私が背表紙を一冊だけ引き出して見せると、クレフスは目を丸くした。
「……探した時に、すぐ出る」
「それが目録の目的です」
短く答えて、次の棚へ移動した。
午後の光が高窓から入り、棚の埃が白く光る中を歩く。昨日整理した区画では、既に文官が何かを探して迷わずに動いていた。その背中を横目で見て、私はまた感情を潰した。喜ぶのは、閉館後でいい。
修復卓に戻り、保存魔法の注意札を書いた。
帝国文書館の保存魔法は、術式の世代が古い。熱と湿気に弱く、隣の棚が問題を起こすと連鎖する可能性がある。だから、特に劣化が進んでいる区画の棚に「術式確認:週1回」の小札を張る必要があった。前任者がやっていなかった、最も基本的な作業だ。
小札の端に日付と施術者欄を設けた。記録が残れば、問題が起きた時に原因を辿れる。
筆を置いた瞬間、背後で足音が止まった。
「あの……」
振り向くと、クレフスが廊下の入口に立っていた。両手を体の前で組み、視線が床と私の間を往復している。
「何でしょう」
私が問うと、彼は一度だけ深く息を吸った。
「……ありがとうございます」
小声だった。文書館全体に響くような声ではなく、私だけに届く音量だった。
胸の奥で、何かが刺さった。
痛かった。褒め言葉というのは、いつもそうだ。王宮では5年間、正確に仕事をしてもそれが当然として消えた。今ここで感謝を受け取るのが、なぜこんなに難しいのか、私には分からない。ただ、刺さる。
「……今のは、褒め言葉ですか。刺すのは、後でお願いします」
思ったより素直な言葉が出てしまった。クレフスが目を丸くして、それから少し笑った。
「……刺すつもりはないのですが」
「分かっています。受け取るのが、下手なだけです」
私は棚の方へ体を向け直した。感情が顔に出る前に、視線を逃がす。5年で身についた癖だ。
クレフスが続けて口を開いた時、私の手が止まった。
「でも……1つ、知らせたいことがありまして」
声のトーンが変わっていた。感謝の温度ではなく、何か別のものが混じっていた。
「言ってください」
「昨夜、棚札が……貼り直されていました」
振り向いた。クレフスは先ほどよりも真剣な顔で、4列目の方向を視線だけで示した。
「どの棚ですか」
「F区画の、3番から7番。……ちょうど、先生が整理された棚の隣です」
私は足で歩数を数えながら、F区画へ向かった。クレフスが一歩後ろでついてくる。
3番棚の正面に立ち、棚札に指先を当てた。
糊の匂いが、鼻の奥を打った。
昨日私が確認した時よりも、明らかに強い。そして紙の端が、棚の枠に対してわずかにずれている。前の位置より1ミリほど高い。測らなくても分かる。角の合わせ方が違うのだ。
指先で端を触れると、乾き方が浅かった。昨夜、作業されている。
「貼り直したなら、貼り直した人の癖が残ります」
独り言のように言ったが、クレフスには届いていた。
「……どういう意味ですか」
「ずれ方、糊の量、貼る時の手の動き。作業の癖は、署名よりも正直です」
私は控えを取り出し、F区画の棚番と現在の状態を書き込んだ。棚札の角度、糊の匂いの強さ、紙質の差。昨日の確認時との違い。数字と記号で書ける部分は数字と記号にして、感覚の部分は「手癖A」とだけ記した。後で参照できる形に。
控えを封で閉じた。
「先生は……怖くないのですか」
クレフスの声は静かだった。責める色ではなく、純粋な疑問の形をしていた。
私は少し考えた。
「怖いかどうかは、問題ではないのです」
「え?」
「文書が動かされている。それは事実か、そうでないか。事実なら記録する。感情はその後でいい」
クレフスは黙った。私もそれ以上は言わなかった。
休憩室へ向かいながら、頭の中で棚の配置を整理した。
F区画の3番から7番。昨日整理した区画の隣。偶然なら、それほど隣接することはない。棚の中身で言えば、3番から7番はいずれも……私が初日に気づいた、目録上で番号が飛んでいる区画に隣接する棚だ。
空白目録と、同じ近さにある。
私はその事実を、頭の中の台帳に書き込んだ。まだ声に出す段階ではない。線が繋がるには、もう少し点が要る。
休憩室の入口で振り向くと、クレフスが廊下の手前で立ち止まっていた。
「先ほどの……本当に、ありがとうございました」
今度はもう少し大きな声だった。私に向かって深く頭を下げる。
私も軽く頭を下げた。
「整理はまだ途中です。礼は最後に」
そう言って扉を押したとたん、クレフスが顔を上げるタイミングと私が振り返るタイミングが完全に重なった。互いの額が、5センチも離れない距離に迫った。
二人とも、一瞬固まった。
「……失礼いたしました」
「……いいえ」
私は何も表情を変えずに休憩室へ入った。扉が閉まった後で、少しだけ息を吐いた。
胸にはまだ、ありがとうの刺さりが残っていた。痛みではなく、温かさとして。それが、余計に困る。
テーブルに控えを置き、F区画の記録を見直した。
棚札を貼り直せるのは、夜の閉館後だ。鍵を持っている者か、持っている者と繋がっている者か。そして貼り直した棚は、空白目録と重なる。
私は控えの下に一行だけ付け足した。
「F区画の夜間立ち入りを確認すること」
それだけ書いて、封を押し直した。
感情は後でいい。今夜の閉館までに、空白の照合を終えなければならない。
明日には、消されるかもしれない。
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