第19話 誰が変えるなと言ったのか
目録室の扉を開けた瞬間、私の手に折りたたまれた紙が押しつけられた。
「……これは」
「黙って」
小声で言い残した文官は、すでに背を向けて廊下へ消えていた。昨日、改革案に向かって最も鋭い目を向けていた男だ。前例がないと私を三度遮り、規定の写しを机に叩きつけた、あの。
手の中の紙を広げると、几帳面な筆致で写し取られた目録の一欄があった。空白の棚番号が、整然と並んでいる。昨日私が自分で控えた番号と、完全に一致していた。
胸の内で静かに何かが軋む。敵意だと思っていたものが、そうでなかった可能性を、今朝の朝一番で突きつけられた。
私は紙を台帳の間に挟み、封蝋を切らないまま鞄の底に落とした。まず、今日の仕事をする。
午前の会議は、始まる前から空気が固まっていた。
長卓の上座に主任文官のデルマン氏が座り、両脇に文書館付きの文官が三名。私は末席に、改革案の写しを一部ずつ配った。昨夜のうちに追記した修正版で、規定の条文を根拠として書き込んである。
「セレスティーヌ文書官長、このたびの改革案ですが」
デルマン氏の声は穏やかだった。礼儀正しい、この上なく礼儀正しい声で、彼は続ける。
「前例が、ございません」
私は頷いた。
「はい。ですから提案しております」
「手順としては、まず帝国文書管理局への申請が——」
「4条2項に基づき、文書官長の権限内で実施できる改革については、事後届け出が可能です。写しをご確認ください」
長卓の空気が、薄く冷えた。
私には分かった。この部屋が、議題が乗った瞬間に冷えるのを、昨日から何度も見ていたから。反対は言葉ではない。温度だ。空気の固まり方だ。声ではなく、沈黙の向けられ方だ。
「……規定、ですか」
デルマン氏が細く息を吐いた。
「ならば」と、彼は少し間を置いた。「申請の形式について、改めて確認する必要が」
「承知いたしました」
私は台帳の端に日付と出席者名を記した。真横に座っていた文官の一人が、ほんの僅かに眉を上げる。
「——止めた方の名前ごと、残します」
静かに言うと、長卓全体が一度、固まった。
会議が散会したのは正午前だった。
玄関脇の柱のそばで、ヴィクトルが壁に背を預けて待っていた。私の顔を見るなり口を開く前に、眼鏡の端に触れて一拍置いた。それだけで、彼がすでに何か察していると分かった。
「どうだった」
報告するつもりで来たわけではなかった。けれど私は、目録室で広げた紙のことと、会議の空気を、短く告げた。
ヴィクトルは黙って聞いた。途中で口を挟まず、眉一つ動かさず、ただ聞いた。
「……名前を記録した」
私が最後にそう言うと、彼はわずかに目を細めた。
「それで十分だ」
「命令で通す気はないのですか」
素直に聞いてしまってから、少し後悔した。しかしヴィクトルは不快そうでもなく、ただ真顔のまま答えた。
「命令で通す改革は、次の命令で潰れる」
私が自分の会議で言ったのと、ほとんど同じ言葉だった。
思わず黙ると、彼はもう一度眼鏡に触れた。今度は外しかけて、止めた。
「あなたが記録で積む方が、後が残る」
それだけ言って、彼は踵を返した。見送りには来ていない、と今さら気づいた。昼の巡察の通り道だったのかもしれない。あるいは、違うのかもしれない。どちらでも、今の私には関係のないことだった。
午後の目録室に戻ると、私は再び空白の番号と向き合った。
昨日拾った棚の欠けと、今朝受け取った写し。二つを並べると、空白の棚番号に整然とした法則が見えてくる気がした。気がする、ではまだ足りない。
台帳を引き出して、今日の会議資料の角を見た。
資料は、開会前にデルマン氏が自ら配った。その一枚の、右上の角が、ほんの少し内側へ折れていた。几帳面な折り方で、癖のある折り方だった。
私は手を止めた。
会議のたびに渡される資料。昨日の棚の写し。今朝私の手に押しつけられた目録の控え。角の癖は、昨日受け取った写しにも、同じ向きで折れていた。
昨日の写しを渡したのは、ヴィクトルの傍らの伝令付きの文官だったはずで——いや、違う。デルマン氏の配布した資料のはずだ。
私は紙の角に指を当てたまま、しばらく動けなかった。
前例がないと言いながら、空白の写しを持っている人間がいる。
その人間が折った書類の角が、今朝私の手に届いた控えと重なる。
偶然なら、ばらける。
揃うのは、手だ。
定時の鐘が鳴るころ、私は控えに一行だけ書き足した。
今夜中に、空白の棚番号と台帳の記載とを照合する。明日の朝、この目録室に残っている空白の写しが、昨夜と同じ形であれば、それは偶然ではない。
そして、昨夜まで私に反対していた文官が今朝の写しを届けてきたなら、彼は何かを知っていて、それを声にできない理由がある。
私が控えを封蝋で閉じたとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
軽い足音ではなかった。複数で、急いでいる。
目録室の扉が、ためらいなく開いた。
顔を上げると、今朝私に写しを押しつけた文官が青い顔で立っていた。
「——空白の棚、今夜閉館後に封鎖されます」
私は立ち上がった。封蝋を押し終えた控えを手に持ったまま。
「誰の権限で」
文官は唇を一度引き結んだ。それから小声で、一つの名前を言った。
私が今日の会議で記録した名前の、その一つ上の名前だった。
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