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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第2章 氷の公爵、迎えに来る

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第17話 書架の間で、ついに落ちた一文

 警報が止んだのは、書架の7列目に踏み込んでから5分後のことだった。


 「一つ、告白させてください」という声が、まだ耳の奥に残っている。何が告白なのか、続きを聞く前にエルンスト様が戻ってきて、会話は切れた。警報の発生源を確かめるために7列目へ来た、それは本当のことだ。でも今この薄暗い通路で、私が気にしているのは欠落した棚番号だけではなかった。


 石壁に沿って並ぶ蝋燭が、細い光を夕闇に投げかけている。エルンスト様の声が廊下の端から届いた。


「別の区画を確認してまいります」


 それだけ言い残して、足音が遠ざかった。残ったのは、私とヴィクトル様と、書架の沈黙だけだった。


 列の奥は想像より狭かった。正面から見れば余裕のある通路でも、斜めから差し込むと棚が両肩まで迫ってくる。収蔵量の多い区画ほど棚の奥行きが増すから、その分、通路幅が削られる。禁書庫でも同じ設計だった。合理的だとわかっていても、今この瞬間だけは少し困った。ヴィクトル様が1歩後ろに立っている。振り返れば、50センチも離れていない。書架の高さは私の背の2倍はあり、蝋燭の光が届かない場所がある。


 目録の欠落を確認するために来た。それは本当のことだ。昨夕見つけた棚番号の空白が、本当に「昔からこうでして」で済む話なのか、実物で確かめる必要があった。警報の発生源がこの区画と重なったなら、なおさら。


 私は棚の板に指を走らせた。埃が薄い。薄すぎる。長年放置された棚とは、手触りが違った。


「403番の次が、408番になっています」


 独り言のつもりだったが、背後で呼吸が一拍止まった。


「……知っていた」


 振り返ってしまった。


 書架の薄明かりの中で、ヴィクトル様は眼鏡を外していた。右手に持ったまま、かけ直す素振りがない。眼鏡を外す、という仕草の意味を、私はこの1か月で学んでいた。それは交渉の顔をしまうときの合図で、計算が終わった後にしか現れない。


 今、彼は計算をしていない。


「いつから、ですか」


「あなたの最初の照会文が届いたときには、すでに」


 一拍、置いた。


「内側に原因がある可能性も、把握していた」


 胸に問いが刺さった。情報ではなく、感情に近い何かで。


「なぜ、教えてくださらなかったのですか」


「巻き込むつもりがなかった。……最初は」


「最初は、ですか」


「あなたが来てから変わった。目録の空白に触れる速さが、想定の3倍だった」


 眼鏡を持つ手が、わずかに下がった。灰の瞳が書架の奥の一点を見ている。本音を言う前に整理する癖が、今もここで作動している。私は待った。


「ヴィクトル様」


 名前を呼んだのは、私の方だった。自分でも驚いた。


「理由を、聞いてもいいですか。照会の頻度の、です。3年分、不自然なほど多かった。業務だとわかっていました。でも——」


 言いながら、自分が何を問いたいのかはっきりした。鍵ではないと信じたくて、でも証拠が欲しくて、ずっと引き出しの奥にしまっていた問いだ。


「理由は1つです」


 声が、いつもと違う質を帯びていた。外交の声でも、交渉の声でもない。


「——あなたの文字が読みたかった」


 書架が、静かになった。


 蝋燭の芯が燃える音だけがある。私は動けなかった。動く理由も、逃げる方向も、見つけられなかった。5年間、誰かに評価されるたびに「買いかぶりです」と跳ね返してきた。褒め言葉は傷のように刺さるから、受け取る前に床に置いてきた。でも今この言葉は、捨てる間もなく、胸の奥のどこかに静かに着地してしまった。熱くもなく、重くもなく、ただ正確に、そこにあった。


「……返書の余白に、参照先を入れていました」


 震えていないか確認しながら言った。


「知っている」


「誰も褒めなかった書き方です。5年間、一度も」


「知っている。それが——」


 一拍だけ、彼が止まった。


「読む者の手間を削る書き方だ。お前の仕事は、そういう仕事だった」


 泣くつもりは、なかった。


 でも目の奥が熱くなって、気づいたら視界が滲んでいた。不要の赤字を何十回も眺めた。引き継ぎ注記を誰にも読まれないまま置いてきた。鍵束を外して机に並べて、それで終わりだと思っていた。5年分を全部、この人は返書の余白から拾い上げていた。文字で知っていた。読んでいた。


 ところが、私は笑ってしまった。泣きながら笑うという器用なことを、気づけばしていた。眼鏡もかけていない人が、口を開きかけて止まった。反論しようとして、できなかった顔だった。


「……不自然でしたもの」


「何が」


「照会の頻度が、です。最初から気づいていました」


 ヴィクトル様が一拍、黙った。眼鏡を持つ指先が止まった。これ以上は何も言わせない、という笑い方だった。


 私は袖で目元を押さえた。泣いた理由を言語化できる気がしない。ただ、5年間飲み込み続けた何かが、ようやく行き場を見つけた気がした。


「……では今度は、声で呼んでください。セレスティーヌ、と」


 廊下で名を呼ばれたとき、いつも正確に響いた。公の場でも、薄暗い書架の前でも、同じ音で。


「……ああ」


 たった1音だったが、それが返事だとわかった。これが承諾の声だとわかった。


 私は一呼吸して、棚の板に視線を戻した。目録の欠落は、まだそこにある。感情が着地した場所の隣に、仕事がある。それがいつも通りで、少しだけ可笑しかった。今夜の仕事は、終わっていない。


 手を伸ばした。403番の棚、空いたままの板の端に指が触れた瞬間、引っかかりがあった。留め具だ。書類の固定用ではない。形が違う。何かを定位置に収めるための台座、そういう形をしていた。長いあいだ、ここに何かが置かれていた証拠だ。


「ヴィクトル様」


「見えている」


 声が、交渉の顔に戻っていた。


「この空白は——」


「事故ではない。意図して、取り出した痕だ」


 台座の跡を指の腹で辿った。金属の冷たさが、指先から腕へ伝わった。何年前に打たれたものか。誰が取り出したのか。今どこにあるのか。問いが頭の中に列を作り始めた。


 そのとき、廊下から足音が戻ってきた。いつもより速い。


「閣下」


 エルンスト様だった。声のトーンが、平常と違う。


「別区画の確認が終わりました。警報の発生源は、この列ではありません」


 一拍置いて、声が下がった。


「それと——内側に、敵がいます」


 書架の列に、静寂が落ちた。


 蝋燭の炎が、細く揺れた。

読んでいただき、ありがとうございます。


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