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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第2章 氷の公爵、迎えに来る

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第16話 眼鏡に触れた指が、言葉を引っ込める

 昨日まで誰も振り返らなかった廊下が、今朝は少しだけ静まっていた。


 正確には——静まった、のではなく、止まった、という感覚に近い。


 帝国文書館の扉を開けた瞬間、私の作業台の端に、きっちりそろえられた束があった。昨日の段階では「規定上、前例に従っておりますので」と柔らかく流された、分類待ちの案件だ。主任文官のフロリアンが紙の角を揃えながら「お手を煩わせるほどでは」と言っていたものが、一晩で私の机の端に移動している。


 ヴィクトル閣下が昨日ここで私の名を呼んだ。ただそれだけで、束の置き場所が変わった。


 胸の中で、複雑なものがねじれた。嬉しいとは思わない。誰かの一言で机の端が変わるなら、別の一言でまた変わる。そういうものを、私は五年かけて学んだ。だから今は、目の前の束だけを見た。誤分類が4件、封印書架区への引き継ぎ漏れが2件、年次の記入ミスが9件。


 羽根ペンを取って、直し始めた。


 作業は思いのほか速く進んだ。目録の体系さえ頭に入ってしまえば、どこに何が欠けているかは一目でわかる。隣の棚の参照番号が3年前から付け方を変えていて、以前の様式と噛み合っていない問題も、変換表を一枚作れば解決できる。午前中に、作業台の上の束は半分以下になった。


---


 昼を少し過ぎた頃、廊下を挟んだ向かいの席から声がかかった。


「……あの、こちら」


 若い文官だった。私より2つか3つ下に見える。腕に古い控えの束を抱えていて、端が折れていた。


「見せてください」


 受け取って広げると、目録番号の体系が変わった時期を跨いで、前後の記法が混在していた。このまま放置すれば、参照するたびに間違いが起きる。


「ここから先は、この桁で統一します。変換表を今日中に作りますから、夕方には渡せます」


「……難しくはないですか」


「半日で覚えられます。体系が分かれば、あとは反復です」


 しばらく間があった。文官は少し目を伏せて、それから顔を上げた。


「……ありがとう、ございます」


 たった一言だった。


 それなのに、私は5秒ほど手を止めてしまった。


 ありがとう。礼を言われることへの慣れ方を、途中でなくしてしまっていた。王宮では「できて当たり前」で礼は来ない。できなければ「代わりはいる」で終わる。それが五年間の水だったから、こういう一言の飲み込み方を忘れていた。


 目の裏が、少しだけ熱くなりかけた。


 馬鹿みたいだと思った。たった一言で、こんなふうになる自分が。取り乱すほどではない。ただ、呼吸の場所が一瞬だけ変わった。


 変換表を作る作業に、もう少し力を込めた。感情を手先に逃がすのが昔からの癖で、指が速く動いている間は余計なことを考えずに済む。


 夕方の鐘が鳴る頃には、机の上がきれいになっていた。


---


 定時になった。


 書類をそろえて端を揃え、羽根ペンをキャップに収め、文書館の入口へ向かった。


 廊下の先で、足が止まった。


 入口の石段の前に、ヴィクトル閣下が立っていた。


 軍服の線が夕方の明かりに切り取られて、影が長い。時計には視線を落とさず、こちらを見ていた。今日が初めてではないような顔で——というか、昨日もその場所にいた。


「今日の仕事は、終わりましたか」


 挨拶でも質問でもない。確認の声だった。


「……終わりました」


 私が答えると、閣下は一歩だけ動いた。向きを変えて、石畳の方へ。


「少し遠回りする。いいか」


 聞く形をしているが、選択肢は渡していなかった。


「……勤務監視ですか」


 口から出てから、しまった、と思った。我ながら真顔で言いすぎた。


 閣下は一拍、止まった。


 否定しなかった。


 眼鏡の縁に指が触れた——触れかけて、止まった。その手がゆっくりと下りた。


「……そうではない」


「では、なんですか」


「……書店がある」


 石畳の先を顎でしゃくった。そういう顔だ、と思った。交渉相手に有利な条件を差し出す時の顔に、少しだけ似ている。


 私はもう一度「勤務監視ですか」と言いたい衝動を飲み込んで、一歩だけ動いた。


---


 石畳は夕方の人通りが混んでいて、並んで歩くには少し狭かった。


 閣下の歩調が、さりげなく遅い。私が置いていかれないように、という配慮だと気づくのに少し時間がかかった。気づいた瞬間、胸のどこかがおかしな痛み方をした。そういう気遣いに慣れていない。慣れていないということを、今日は何度も思い知らされている。


 書店の前を通りかかった時、閣下の目が棚の端で止まった。帝国法典の新刊見本が並んでいた。


「欲しいものがあれば、言え」


「……私は鍵ではありませんので、買収はご遠慮願います」


「買収ではない」


「では」


「……習慣だ」


 習慣、という言葉を、閣下は少し短く言った。私の返答を待つような間があって、私は何も言えなかった。


 習慣、という言葉の重さをまだはかれない。それが怖い理由も、まだうまく言えない。そう言えるようになるのがいつなのか、私には分からない。


 書店の前を通り過ぎて、石畳が少し広くなった。


---


 文書館への戻り道に差しかかった時、閣下が足を緩めた。


「……一つ、告白させてください」


 私の足が止まった。


 石畳の音が途切れた。人通りの向こうで、夕鐘が鳴り始めた。


 閣下がこちらへ向き直り、眼鏡の縁に指をかけた——外しかけた。


「閣下!」


 走ってくる足音が、その言葉を上から塗りつぶした。


 エルンストだった。顔が青い。書類を胸に抱えたまま、息が乱れている。


「封印書架区から報告が。目録照合の最中に——施錠が解除されていない棚が見つかりました。記録上は施錠済のはずが、内側の掛け金が」


 閣下の指が、眼鏡の縁から離れた。


 私はその手を見た。外しかけて、戻った手を。


「……行こう」


 それだけ言って、閣下は石畳を踏み直した。


 私も追いかけた。


 告白の続きが聞けなかったことよりも、今は足元の石畳だけに集中した。でも、どこかで分かっていた。さっき閣下が眼鏡を外しかけた時の表情に、私はまだ名前が付けられない。


 封印書架区の棚は、昨日私が目録の空白に気づいた場所に隣接していた。


 施錠が解除されていない棚。記録上は済のはずが。


 事故、という顔を、していなかった。

読んでいただき、ありがとうございます。


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