第15話 建前の招聘に、どこまで本音が混じる
帝都の文書館は、想像の3倍大きかった
石造りの正門をくぐった瞬間、頭の中で規模の換算が始まった。5年間管理し続けた禁書庫は横幅にして30歩、奥行き50歩。目の前の建物は、それが8つ入ってもまだ余る。書架の列が外からでも透けて見えるほど、高窓が規則的に並んでいる。外壁には刻印管理の徽章が各所に埋め込まれ、石の1枚1枚が均一に磨かれていた。
馬車が止まるまで、私はずっと窓の外を見ていた。
ヴィクトル様が先に降りた。私が続いた。石畳に足をつけた瞬間、建物の威圧感がまた一段増した。大きい、というより、緻密だ。どこを見ても無駄がない。使う人間の数に合わせて設計された建物というのは、こういう形をしている。
正門脇の詰所から、帝国文官が出てきた。
「ご到着をお待ちしておりました、閣下」
礼節は完璧だった。視線だけが、ヴィクトル様を飛び越えて私を測っていた。一瞬で終わる種類の視線だが、測られたことはわかった。5年間、禁書庫の前に立って照会者を受け付けてきた人間には、こういう視線の質がわかる。
好奇心ではなかった。値踏みだった。
エルンスト様が書類を出し、詰所での確認が始まった。私は少し後ろに立って、建物の上を見た。
ここで、働く。
自分の名前で来た。そのはずだった。
正門の確認が終わり、建物の中へ入った。廊下は石床で、足音が左右の書架の間に反響した。エルンスト様が先を歩く。ヴィクトル様がその次。私がその後に続いた。
廊下の奥から、声が聞こえた。
文官たちの休憩室だろうか。半開きの扉から、複数の声が漏れていた。私が近づいたとき、その声がはっきりと聞こえた。
「——条約のための人材だろう。王国から一時的に借りてきた鍵だ」
「公爵閣下が期限に追われて急いで引き抜いた。条約が終われば、返される」
足が、止まった。
ヴィクトル様とエルンスト様は少し先を歩いていた。届いていないかもしれない。届いていても、足を止めることはないかもしれない。私だけが廊下の途中で、その声を全部受け取った。
――鍵。
5年間、私はその言葉と付き合ってきた。禁書庫の鍵を持つ者。開けるための機能。扉の前に置かれる道具。婚約破棄の翌朝でさえ、「鍵が戻らなければ困る」という言葉が最初に来た。
その感触が、正確に同じ形で、今ここに戻ってきた。
自分の名前で行きます、と言った声が、耳の奥でかすかに鳴った。
でも、外から見れば同じだ。王国から引き抜かれた技術職の女が、期限に追われた公爵と一緒に帝都に来た。条約目的でなければ何の目的があると問われれば、私だってそう見える。
胸の中で、何かがじわりと滲んだ。熱くはない。ただ静かで、重かった。
「セレスティーヌ」
名前を呼ばれた。
振り返ったのではない。顔が勝手に上がった。ヴィクトル様が、廊下の少し先で立ち止まり、こちらを見ていた。眼鏡の縁に光が走り、灰の瞳が真っすぐに私を捉えていた。
「こちらだ」
それだけだった。先を歩く、という促しの言葉だったかもしれない。けれど今この廊下で、名前を呼ばれたことが、妙に正確に刺さった。
私は歩き直した。
大きな扉を抜けると、広い部屋に出た。文書館の中心部だった。書架が三方を囲み、中央に長テーブルが2本ある。10人近い文官が立っていた。全員がこちらを向いた。
ヴィクトル様が一歩前に出た。
「帝国文書官長は——セレスティーヌだ」
部屋に、短い沈黙が落ちた。
名前を呼ばれた、ではない。肩書と名前を同じ文に入れて、公の場で言われた。私の名前が、この場所に置かれた。
廊下で聞いた声が耳の奥で「鍵だ」と言っていた。でも今、この部屋の空気は、別の形をしていた。
10人の視線が、全部私に来た。最初の値踏みとは違う。肩書が付いた人間を見る目だった。
「……よろしくお願いいたします」
私は一礼した。声は、思ったよりも平坦に出た。胸の奥で何かがまだ揺れていたが、今は必要な言葉だけを出した。
文官たちの中の1人が目を伏せた。別の1人が口を開きかけて、閉じた。ヴィクトル様が軽く顎を引き、側近へ何かを伝える。部屋の空気が、業務の形に変わり始めた。
まだ落ち着かなかった。でも、立っていることはできた。
廊下を通るとき、さっきの休憩室の前をもう1度通った。扉は今度は閉まっていた。声は聞こえなかった。廊下の先の角で、年配の文官が2人すれ違いながら何かを囁いていた。
「——公爵閣下が毎日迎えに来ておられると……」
片方が言いかけた瞬間、ヴィクトル様の背中が同じ廊下を通り過ぎた。文官2人が同時に口を閉じ、完璧な礼を取った。ヴィクトル様は一度も振り返らず、真顔で通過した。
その一連の間が、3秒ほどあった。
私は、あとに続きながら小さく息をついた。笑う場面ではない。でも、その完璧な無反応が、少しだけ胸の重さを軽くした。
書架の巡回を始めたのは、1時間後だった。
案内役の文官が先を歩き、各書架の区画を説明する。禁書庫に比べて分類は粗いが、量が違う。1区画に入っている冊数が、禁書庫の棚1本分に相当する。全体の把握だけで3日かかりそうだと思いながら、目録を読んでいた。
4列目の書架に来たとき、手が止まった。
目録の札が、飛んでいる。
棚番号は端から順に連番になっているはずだ。1から始まり、区切りごとに100番台が上がる。だが今見ている棚には、「403」の次が「408」になっていた。404から407が、ない。
札がないだけではない。棚そのものが空いていた。書架の板が4枚分、そのまま何も置かれていない。
「この区画は……」
案内役の文官が振り返った。柔らかな笑みだった。
「昔から、こうでして。前任からの引き継ぎのままでございます」
その一言で、会話を終わらせる間合いだった。問いの先を詰める前に次の書架へ促すような、丁寧な遮り方だった。
私は目録を閉じた。閉じながら、棚番号を暗記した。403、408。飛んでいる数字は4つ。4枚の板。何年そのままなのかは聞かなかった。聞く前に、流れが変わった。
廊下に出ると、残りの巡回は翌日に回すことが告げられた。
外へ出ると、夕暮れが石畳の上に長い影を伸ばしていた。正門の外に馬車が待っていた。
私は振り返らなかった。書架の空白が、目の奥に残っている。
昔から、こうでして——その言葉が、静かな形で何かを隠していた。
管理が届かなかった空白は、こういう顔をしていない。あれは、残された空白だ。
誰かが意図して、そこを空けたままにしている。
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