第14話 共同作業の沈黙は、味方か敵か
残り3日、という数字が、頭の隅に貼り付いて離れない。
宿の窓から見える街道は、もう夕闇に飲まれていた。馬車が止まって2時間になる。街道沿いの宿屋は質素だが静かで、廊下を歩く足音も聞こえない。エルンスト殿が手配した部屋は小さく、机と蝋燭が1本あれば充分だった。
今朝の宿場で追いついてきた照会文書が、5通ある。
こういう仕事は、止まらない。王宮にいても、旅の途中でも、文書は人を見つけて届く。伯爵邸にいた数日でさえ、毎朝のように封蝋付きの束が玄関に並んでいた。帝国宮廷文書官長の肩書きは、仕事の速さを変えない。むしろ増える。
それがいい、と思っている。手が動いている間は、余計なことを考えずに済む。残り3日の数字も、馬車の外で積み重なっていく帰還要請の気配も、ペンの先に全部沈めてしまえる。
ペンを取った。
最初の照会は、境界地の条約附録に関する問い合わせだった。記憶の中の台帳を広げて、根拠条文を引く。文面は短く、余計な言葉を入れない。読む相手が次の照会を省けるように、参照先だけを注記として添える。5年で染みついた書き方だ。承認を受けたことは1度もなかったが、やめる理由もなかった。
2通目に取り掛かった頃、ノックがした。
「どうぞ」
答える前に、誰かわかっていた。廊下を歩く足音の重さと速さが、ヴィクトル様のそれだった。
扉が開いた。
無言で入ってきた。向かいの椅子を引いて、腰を下ろす。鞄から書類を2枚取り出して机に並べる。ペンを構える。それだけで、一言も発しなかった。
私も何も言わなかった。2通目の返書に戻った。
ペンが走る音だけがある。蝋燭の芯が静かに燃える音。馬車を降りた宿の静けさの中に、机を挟んだ2人分の呼吸がそこにあった。
気まずくなるはずだ、と最初は思った。沈黙は、普通は重さを持つ。婚約者との5年間、こういう種類の静けさは、いつも「忘れられている」という感触を連れてきた。執務机に向かっていても、廊下を歩いていても、誰かの隣にいるのに気配が届かない、あの薄さ。仕事の横に人がいるのに、空気が冷えたままの、あの感触。
だが、今はそうではなかった。
3通目を書き終えた頃、気づいた。
思考が止まらない。手が滑らない。向かいにヴィクトル様がいるのに、一切の摩耗がない。いつも仕事の隣に置かれてきた「周りの視線」「正しい手順か」「遅すぎないか」といった摩擦音が、今は鳴っていなかった。ただ、書くことと、考えることだけがある。静けさが、邪魔をしていない。
この沈黙は、今、味方の顔をしていた。
気づいた瞬間、胸の奥で何かが揺れた。小さく、でもはっきりと。
落ち着いてはいけない。この「楽さ」を当たり前だと思ってはいけない。私はまだ、この人が何を本音として持っているか、全部は知らない。招聘が条約のためであっても不自然ではない。条約が片づけば立場は変わりうる。帝国文書官長の肩書きが剥がれれば、私はまた「都合のいい鍵」に戻るかもしれない。
5年間、鍵として扱われ続けた人間は、「楽さ」に慣れてはいけないことを知っている。慣れたあとで剥がれるのが、いちばん痛い。
それでも。
今夜この宿で、机の向かいにある呼吸は、邪魔をしていない。
この沈黙だけは、今夜、味方だと感じていた。
「……あなたの返書は、冷たくない」
声がした。
ヴィクトル様が言った。視線は手元に落ちたままで、私が書いている4通目を覗き込んでいるわけでもなく、ただ低く、事実を告げるような声で。
一拍、止まった。ペンが止まった。
「冷たいのは、私の置かれ方だけです」
答えた声は、思ったより平坦に出た。
向かいで、ヴィクトル様が目を上げた。灰の瞳が一拍だけこちらを捉えて、それからまた書類に戻る。眼鏡の縁に指が触れた。触れかけて、止まった。何かを言いかけた気配があって、飲まれた。
私は4通目を書き終えた。
余白に1行、注記を足す。参照先を入れる癖が、いつの間にか返書にも染みついている。これが好きだった。誰かの手間を削れるなら、それだけで仕事が前に進む。誰にも褒められなかった書き方だが、正しいと思っていた。
封蝋を取った。蝋燭の炎で温めて、印を押す。
その瞬間、扉が開いた。
「閣下、追加の資料が届きました」
エルンスト殿が書類の束を抱えて入ってきた。部屋を一瞥した。私が4通終えて5通目に向かっており、ヴィクトル様が向かいで書類を広げており、机の端には封蝋皿が1枚あった。蝋が少し溶け出していた。
「……業務、ですよね」
小さく呟いた。封蝋皿をもう1枚、音もなく机に追加した。それだけして、一礼して退室した。
扉が閉まった。
私は視線を手元に戻した。5通目の照会を開く。エルンスト殿の声のトーンについては、考えないことにした。「業務ですよね」という確認が、誰に向けられた問いだったのかも。
5通を書き終えた頃には、蝋燭が3分の1短くなっていた。
封をした手紙を束ね、机の端に揃えた。ヴィクトル様の書類の隣に自然に並んだ。
「お先に失礼いたします」
「……ああ」
立ち上がった。扉に向かった。廊下に出る直前、振り返らないまま気づいた。向かいの椅子が軋まない。ヴィクトル様は立っていない。
それから、かすかに紙ずれの音がした。
封をした手紙を手に取る音だろうか。振り返らなかった。廊下に出て、扉を静かに閉めた。
石床を歩きながら、胸の中の「楽さ」がまだ消えていないことに気づいた。
そして、気づいてしまったことがもう1つある。
さきほど机の隅を、一瞬だけ見てしまった。紐で結んだ束があった。以前の照会への私の返書だ。今日届いたものではない。もっと前から、あそこにあった。1通や2通ではない。積み重なった厚みだった。伯爵邸に来る前から、あるいはもっと前から、集められたような積み方をしていた。
捨てない理由が、私にはわからなかった。
返書は業務の記録だ。保管することに合理的な理由があっても、おかしくはない。きっとそういうことだ。
でも。
宿の廊下は静かで、私はしばらく、その問いを持ったまま立っていた。
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