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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第2章 氷の公爵、迎えに来る

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第13話 「気にしている」と言いかけて、止めた

 馬車の揺れに、心拍が気づいた。


 揺れ自体は大したことはない。石畳の継ぎ目が増えるのは国境に近づくせいで、春先の道がまだ泥を含んでいるせいだ。わかっている。それでも、右肩から50センチほどの場所にヴィクトル・ノヴァルティス公爵が座っているという事実が、どうにも正面を向いたままでいることを難しくさせた。


  私は膝の上で書類束を揃え直した。指先に巻きついた細い赤インクの染みが目に入る。昨夜、宿でまとめた訂正メモだ。移動中に清書を終えるつもりだったのに、羽根ペンは鞄の底でおとなしくしており、私は手を伸ばす気になれずにいた。


 理由はわからない。正確には、理由をわかりたくなかった。


 公爵は窓の外を見ていた。灰の瞳が草地の向こうへ流れている。銀縁眼鏡の蔓が、光を細く跳ね返していた。


  沈黙は不快ではなかった。そこが余計に困った。不快なら、「書類に集中しよう」と自分に言い訳ができる。けれど、この沈黙は静かすぎて、私の考えがかえってよく聞こえてきた。


 ――あなたは、まだ私を鍵と呼んでいない。


  思ってしまった瞬間、すぐに首を振りたくなった。結局、それだけのことだ。評価されることへの飢えが、私を甘やかしている。招聘状に書かれた肩書と、「あなたの価値を理解しない国に置く理由がない」という短い断言が、五年ぶんの凍えた部分に触れてしまっただけだ。それ以上でも、それ以下でもない。


 そのとき、馬車が大きく揺れた。


 右側の車輪が轍の段差を踏んだのだろう。体が傾き、書類が膝から滑りかける。とっさに押さえた私の腕と、公爵の袖が、空気を一枚挟んで触れそうになった。


 ――二人同時に、一歩だけ離れた。


  窓の外を見たまま公爵の背筋が僅かに正された。私は書類の端を揃えながら、つとめて視線を落とした。エルンスト様が御者台に乗っていてよかったと、心底思った。あの方なら、今の間合いを「業務の距離感で問題ありません」と帳簿に清書してくれるはずだから。


 国境の詰所は、思ったより人が多かった。


  馬車が止まると、詰所の兵が2人、雨合羽を揺らしながら近づいてきた。エルンスト様が先に降り、書類の束を差し出す。私も続いて石畳に足を下ろしたとき、兵の一人の視線が私の胸元の刻印徽章を確認し、それからヴィクトル公爵へ移り、また私へ戻ってくるのを感じた。


「保護誓約の登録済みです」


 公爵が短く言った。兵は一拍置き、帽子の庇へ手を当てた。


 それだけで、詰所の空気が変わった。周囲の兵が視線を外す。当番の文官が椅子を引き、「お通りください」と言った。


  私は自分の手首を、無意識に見下ろしていた。鍵束があった頃の、薄い跡。今は何もない。代わりに、帝国の通行許可証と、公爵の名の入った書類が、エルンスト様の手に収まっている。


 守られている。それは本当のことだ。


  ――守られるほど、自由が削れていく気がした。


 馬車が再び走り始めてから、私の心はどこかで鳴り続けていた。


 言葉にしにくい、低い音だ。五年間、誰にも頼らず台帳を維持してきた。鍵を磨き、管理簿を書き、問い合わせに答え、誰も礼を言わない仕事を続けた。それが「私」だった。


 でも今、私は誰かの名前で国境を越えた。


「……気にしすぎですか」


  声に出すつもりはなかった。独り言のつもりで落とした言葉が、狭い馬車の中で意外と届いた。


  公爵が窓から視線を戻した。


「何を」


「鎖、だと思っていないか、ということです」


  我ながら要領を得ない問いだと思った。けれど公爵は、少しも表情を崩さずに聞き返した。


「それは、誓約書のことか」


「誓約書に限りません。……名前で国境を越えることも、書類に保護者として登録されることも、全部、です」


  言葉にしてみると、自分がずっとこれを抱えていたのだとわかった。鍵扱いが怖かった。また「便利な存在」に戻されることが怖かった。だから今度は「私の名前で行きます」と言った。なのに、守られる側に入った瞬間に、名前の輪郭が滲んでいくような気がした。


「無理はさせない。……だが、放っておけない」


 一言目と二言目の間に、短い間があった。


「放っておけない理由を、言わないのですね」


 返した瞬間、自分の口が先走ったと思った。けれど公爵は否定しなかった。眼鏡の蔓に指が触れ、言いかけた言葉が喉の奥に引っ込む気配がした。


 沈黙が、今度は別の質量を持って落ちた。


 怒っているわけではない。困惑しているのとも違う。ただ、「まだ言えない理由がある」という形の沈黙が、そこにあった。


 私は書類束に視線を戻した。


 言えないなら、聞かない。仕事の文書に「余白」があるとき、私はそこを埋めない。余白には余白の理由があると知っているから。


 ――この人の沈黙にも、それと同じものがあるかもしれない。


 思った直後に、自分が少しだけ安堵していることに気づいた。それが怖いよりも、もう少しだけ怖くなかった。


 夜の宿場で荷解きをしていると、エルンスト様が廊下の戸口に立った。


「セレスティーヌ様、一点だけ」


 声が硬かった。私は振り向いた。


「王国からの書簡が、今日また届いておりました。……期限の更新です」


 封蝋の色が目に浮かんだ。丁寧すぎる文面の、命令の匂いが。


「残り日数は」


「3日です」


 エルンスト様は一拍置き、付け加えた。


「文面の癖が、また揃っております」


 廊下の向こうに、灯りが揺れた。公爵の部屋の戸が、音もなく閉まるのが見えた。


読んでいただき、ありがとうございます。


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