第12話 期限は待たない——猶予の数え方
居場所が漏れている。
その事実が、荷造りの手を止めた。
3日で3通。しかもヴィクトルが伯爵邸を訪れる刻と、ほぼ同じ時刻に届いている。5年間、書簡の文体と到着頻度を管理してきた人間には、揃いすぎた間隔が読めた。偶然ではない。誰かが動向を流している。
私は机の上の荷を見た。服が2枚、洗面道具が1組、手帖が1冊。まだ足りない気がして、棚の前に立った。
本が6冊あった。持ち出すかどうか迷って、全部棚から出した。それから背表紙の順に並べ直した。厚みの順、次に背の色、最後に題名の五十音。書類整理から染みついた癖だった。
「……あの、セレス様」
侍女が遠慮がちに声をかけてきた。目が少し丸くなっている。
「荷物に……入れるご予定ですか」
「考え中です」
「はい……そうでございますね」
声に何かが混じっていたが、聞かなかったことにした。順番に並べると、頭が少し静かになる。それだけのことだった。
書物は結局2冊にした。招聘状の条文を書き写した手帖と、引き継ぎ注記の写し。それ以外は棚へ戻した。
棚が整ったとき、侍女がもう一度目を丸くしたのが視界の端に見えた。私は何も言わなかった。
ヴィクトルは今朝も来ていた。応接間で私を待っているとバルトロメオが告げたのが、鐘が鳴り終わる前だった。急かすつもりはない、と毎回言う人間が、毎回夜明けに来る。
その矛盾がずっと腑に落ちなかったのに、今朝はそこまで不思議ではなかった。
荷物を確認して、鞄の留め金を締めた。ここ3日で変わったことがある。王国からの書簡。到着時刻の一致。そして昨日バルトロメオから聞いた「今回が初めてではない」という言葉。情報が外に流れている。誰が、どこへ。今はまだ分からない。でも告げるべきことは、今日告げる。
応接間へ向かうとき、廊下の窓から空が見えた。晴れていた。旅に出るには悪くない天気だった。
廊下の端で、下の使用人たちの声が耳をかすめた。神殿が「聖女の祈祷で禁書庫を開く」と宣言したという。声はすぐに遠ざかった。私は足を止めなかった。あの扉は、祈りで開く仕組みになっていない。5年前に、そうしないよう作り直したのは私だ。
扉を開けると、ヴィクトルは窓際に立っていた。こちらの気配に気づいても、振り返らなかった。
「6日です」
いつもより1音低い声だった。圧がない分だけ、重かった。
「条約更新の期限。今日を含めて5日と半日」
私は椅子を引いて座った。知っていた数字だった。でも声に出されると、肺の中の空気がうまく動かなくなった。
「……承知しております」
「急かすつもりはない。ただ」
ヴィクトルがこちらへ向いた。眼鏡の奥の灰の瞳が、まっすぐだった。
「期限です。命令ではない」
その置き方が、奇妙にまっとうだった。命令ではないと断る人間は、命令していないつもりでいる。でも彼はそれを分かった上で言っている。出口として。
私は手帖を膝の上で開いた。条文の写しを指先でたどる。
第3条。刻印移行期間は着任後3か月とし——
3か月。禁書庫を去ってから、もうその期間は過ぎている。後任が決まっていない今、どれだけ帰還要請を出されても、刻印の引き継ぎは間に合わない。5日半の期限に対して、3か月は詰まらない数字だ。
分かっていた。最初から、計算すれば分かることだった。
なのに今この瞬間、その数字が違う色に見えてきた。
赤字の「不要」が瞼の裏に浮かんだ。斜めに走った2文字。5年間、上申書を出すたびに戻ってくる、あの字。後任育成の予算を申請して不要。引き継ぎ3か月の制度を整備しようと申請して不要。説明すら来なかった。
ただ、赤が来た。何度も、短く、同じ形で。
あの赤は、私が戻るための道に引かれたものではない。私が戻れないための、積み重ねだ。制度として残したのは私だ。3か月という猶予が必要なのだと誰より知っていたのも私だ。王国がその制度を捨てて今ここに立っているのなら、因果はどちらにある。
赤字が、初めて違う形に見えた。痛みではなく、記録として。
手帖を閉じると、掌の中が少し温かかった。5年かけて積んだ仕事が、今ここで別の重さを持っている。捨てられたはずのものが、形を変えて残っている。それが悲しいのか、そうでないのかは、まだよく分からなかった。ただ、赤い文字の意味が、今日だけは少し違った。
「段取りを確認します」
ヴィクトルが椅子を引いて座り、小さな紙片を机に出した。行程表だった。日付、経路、宿場の名が、びっしりとある。見やすかった。
「同行者の配置、国境通過の書式、宿の手配。エルンストが今朝方揃えました。問題があれば言ってください」
「……手が速い」
「前日では遅い」
受け取った行程表を読んだ。どこにも穴がなかった。穴がないことが、胸のどこかに引っかかった。
「なぜ、ここまで——」
自分でも驚くほど、声が素直に出てしまった。
「筋だろう」
短かった。それ以上の説明はなかった。ただ、その言葉の向きが私の方を向いていた。
出発の支度を終えて廊下へ出ると、バルトロメオが礼をして立っていた。侍女が荷物を抱えている。エルンストが書類を腕に控えている。
「……令嬢のご出立は」
バルトロメオが小声で聞いた。
私は答える前に、玄関の扉を見た。
5日と半日。3か月の制度。帰還要請の3通。揃いすぎた到着時刻。
全部分かっている。計算の上にある。
でも今、この足が動こうとしているのは、それだけの理由ではない気がした。追い立てられているから動くのではない。
「行きます」
バルトロメオが小さく息をのんだ。
「私の名前で、行きます」
玄関の扉が開いた。朝の光が石畳に伸びた。馬車の前に、ヴィクトルが立っていた。手を伸べも、声をかけもしなかった。ただ、立っていた。
私は自分の足で石段を下りた。靴が石畳に着いた。腰が軽かった。鍵束のない、軽さだった。
馬車に乗り込む直前、後ろでエルンストの声がした。
「閣下、国境通過の書式ですが……面会許可証だけでは、足りない可能性がございます」
ヴィクトルが低く答えた。
「分かっている。——保護誓約の手続きは、国境で取る」
私は馬車の扉を掴んだまま、止まった。
保護誓約。招聘状の第9条。勤務中の危険に対し、甲は乙の身辺安全について——
条文は、そこまでしか写していなかった。
それから先に何が書いてあるか、私はまだ読んでいなかった。
ヴィクトルが乗り込んでくる気配がした。扉が静かに閉まる。馬車が揺れ始めた。
手帖の厚みが、掌に重かった。
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