第十七話:襲いくる怨嗟の輪【前編】
「王都へ早馬を出した。明日の朝には検死官と御父上が到着されるだろう」
ぎゅっと眉間に皺を寄せ、バウアーがルイたちに告げる。事故が起こったあと、四人は教育長室に集まっていた。部屋の奥には、黒光りする頑丈なオーク材の巨大なデスクが置かれ、羽ペンとインク瓶のほか、何やら書き記された羊皮紙がうず高く積まれている。壁は温かみのあるウッドパネルの木枠が付いており、歴代の偉大な騎士団長たちの肖像画や、古い戦術地図が吊るされていた。床に敷かれた大きな熊の毛皮の絨毯は、バウアーの戦功だろうか。死してなお威圧感を放つ獰猛な顔つきは、今にもこちらへ襲い掛かってきそうだ。
「あり得ない...と言いたいところだ。こういう事態にならないように、万全の備えをもって訓練には臨んでいた。しかし、どれだけ手を尽くしても人間にできることには限りがある。今回は女神様の思し召しだったのかもな...」
巨大なデスクの奥―――革張りのソファに浅く座り、バウアーが机の上で祈るように組んだ両手にゴンっと力なく頭を当てる。あのあと死体は丁重にシーツでくるまれ、城塞として使われていた名残だという石造りの地下貯蔵庫に運ばれた。あそこならば気温が低い状態で保たれており、死後変化も緩やかに抑えられるだろう。当時、被害者は城壁の上で他の団員とともに遠くにいる敵を弓矢で撃つ『遠的』の訓練中だった。その最中に城壁の上から落ちてしまったようだ。
「明日は一苦労だ。ご子息を失ったモンペリエ卿の怒りは避けられないだろう。寄付が打ち切られることと、わしが教育長を降りることになるのは間違いないな」
ジュリアンが主を慰めるように、傍らの陶器に琥珀色の紅茶を静かに注ぎ入れた。トトト、とたおやかな音が響き、ふわりとした華やかな香りが室内に広がって、その場にいる者の鼻腔をくすぐる。
「悪いが、やることが山積みで。捜査に同行できそうにありませんが、大丈夫ですかな?」
「問題ない。現場はそのままにしてあるか」
「訓練生に指示し、誰も立ち入らないようにしております」
「ありがとう。それじゃあ、ルイ行くぞ」
「なにか分かりましたら、報告させていただきます」
「頼みましたぞ」
バウアーとジュリアンの祈るような視線を背に、シャーロットとルイは教育長室を後にする。先ほど、運ばれる直前の遺体の状況はすでに確認してある。手足が折れ曲がり、地面との衝突の際に皮膚が大きく裂けたのか体表に激しい損傷が認められた。典型的な落下死の特徴を示していた。しかし、現場周辺をすぐさま調べようとするシャーロットをバウアーが止めたのだ。まずは尊厳をもって骸を運ぶことが先だと。シャーロットはそれを根に持っているようで、現場へ向かいながら「現場の状況が変わっていたらどうするんだ。もし事故ではなく事件だったとしたら、犯人に証拠隠滅を図られる可能性も大いにあるじゃないか」と、ぶつぶつ文句を言っている。
シャーロットを宥めつつ、二人が事故のあった石砦の前に着くと、砦に上がる階段の前と落下現場にそれぞれ訓練生が二名ずつ威厳よろしく立っていた。周囲を油断なく警戒しているようだが、まだ未熟さえゆえの甘さがある。しかし、ジュリアンが現場を任せたとだけあって、あの訓練に身が入っていない上流階級の青年たちとは、明らかに一線を画す覇気を放っていた。
「魔導治安維持局のルイ・ジェイです。調査に来ました」
ルイが挨拶をすると、
「ルイさん、お待ちしておりました!」
「現場に異常なし!人っ子ひとり立ち入らせておりません!」
訓練生たちが、ビシッとした敬礼とともに力強く声を張り上げて応じた。腹に力を込めて放たれた声は周囲の空気をビリビリと振動させるほどの声量で、シャーロットも思わずヘルメットの上から耳を塞ぎ「うるさい…」と小声で文句を言っていた。
「ははは、ありがとうございます。それでは捜査させてもらいますね」
「どうぞ!」
朗らかなルイの言葉にも、声量を全く落とすことなく返し、体をどける。彼らの立っていた先の地面は少し窪んでおり、そこに死んだ青年が落ちてきたことが一目で分かった。流れ出た血を地面が容赦なく飲み込んだらしく、血溜まりそのものは消えているものの、周囲の乾いた土には赤黒い液体が染み込んでいる。シャーロットは落下現場の傍らにしゃがみ込むと、防護服の手袋越しにその土壌をそっと指先で掬い、様々な角度から現場を観察し始めた。しかし、地上にはこれ以上追うべき痕跡がないと踏んだのか、そう時間もかからないうちに立ち上がった。
「次は砦に行こう」
砦に行くと、同じように訓練生たちからの咆哮のような敬礼で迎えられた。誰もシャーロットの恰好を気に留めている様子をおくびにも出さないのは、バウアーの教育の賜物だろうか。瞳には好奇心や不信感が浮かんでいるものの表情には出ていない。この年でそこまで繕えるとは見事なものだ。僕もバウアーさんの下で学んでいたら掃除機で吸われなかったのかな…と思いつつ、ルイは所々に皺がついてしまった制服を軽く手で摩りながら、シャーロットと一緒に砦の階段を登った。
登った先には、もう一つの砦につながる平らな防衛用通路が伸びていた。石造りの道には慌てて訓練を中断したらしく、置き去りにされた大弓や命綱がそのまま散乱している。その中をシャーロットがゆっくりと歩みを進めた。周囲を見ると砦の凹凸が連続する胸壁の内側に、小さな金属部品が石をしっかりと挟んで固定されている。
「クランプか」
「クランプ?」
「木材や金属などの加工時に材料を挟んで固定する金具だ。これに自分の命綱の先にあるカラビナを繋いで訓練をしていたんだろう」
シャーロットが周囲の状況を見ながら、推測する。たしかに、周りのクランプにはカラビナが付いた命綱がぶら下がったままの状態であちこち放置されていた。命綱の先はベルト状になっており、これを腰に巻いて演習をしていたことが窺える。
「ちなみに砦の凸部分をメルロン、凹んでいる部分をクレネルと呼ぶ」
「さすがに知っていますよ。兵士はメルロンで体を隠して身を守りつつ、クレネルから攻撃を仕掛けるんですよね」
「正解だ」
そんな会話をしながら見て回っていると、すべてのメルロンにクランプが付いているなか、特に眺めのいいメルロンからはそれが消えていた。すぐ横のクレネルから真下を覗き込むと、地上を見張る二つの頭と地面にしみ込んだ赤黒い跡が見下ろせた。。ここのクレネルから被害者は落ちたらしい。
「クランプがないということは、それが取れてしまって落ちたのか?」
「うーん、まだ分かりませんね。地上に探しに行ってみましょう」
二人は落下現場の周囲をくまなく捜索をしてみたが、クランプらしき金属片も命綱も見つからなかった。見張っていた訓練生のひとりにも手伝ってもらい、草むらをもかき分けて探してみるが、ゴミ一つ落ちていない。普段から敷地内のあらゆるところに清掃の手が行き届ているらしい。
「運んだ死体は事故当時のままにしてあると言っていたな。服も着たままか?」
「はい。地下に行けば確認できるはずですよ。バウアー教育長からも許可をもらっています」
「そうか、もしかしたら命綱が付いたままかもしれない。行ってみよう」
遺体が安置されている地下の石造りの貯蔵庫は、蝶の飛び交ううららかな外界とは隔絶されたように、すべての時間を凍り付かせるかのような冷気が漂っていた。部屋の真ん中らへんに置かれた台の上に布にくるまれた遺体が横たわっていた。ルイがそっと布を捲ると、誰かが瞼を閉じてくれたのか、苦痛に顔を歪めてはいるものの永遠の眠りについた死者の顔が現れた。その体には所々が破れた衣服と腰のあたりに太いベルトが巻き付いている。
「あった、命綱だ」
シャーロットがベルトの辺りを観察すると、そこに繋がった命綱は途中で断裂していた。その断面は驚くほど滑らかで、繊維が限界を迎えてほぐれてしまったような代物ではなかった。どちらかというと、まるで切れ味の鋭いナイフで切られたかのようだ。
「千切れている…」
「これは、備品の不備で自然に切れてしまったとは言えないな」
「ですね。空間そのものを切り裂くような『切断魔法』の希少な能力者か、あるいは……数百メートル先からでも狙った糸を射抜くような、神業の弓の使い手による仕業でしょうか。でなければ、衆人環視のなか、誰にも気づかれずにこの太い命綱を断ち切るなんて不可能です」
「うぅむ」
その場で深く思考の海に沈むシャーロットの背後から、カツカツと規則正しい足音が聞こえてきた。二人が振り返ると、地下の暗がりの奥から、ランタンの光を浴びてモデルのように華やかな男が、数人の青年を率いて静かに姿を現した。背負った豪奢な弓が、暗闇の中で鈍く光っている。
「バウアー教育長に言われて来ました。弓の教員をしているフェルディナンド・ルミエールです。事故当時、後ろの訓練生たちとともに遠的の演習を行っておりました。お二人にお話しするよう言われて参りましたので、何なりとお聞きください」
「ルミエールさん。初めまして、ルイ・ジェイです」
「シャーロットだ」
「初めまして、ルイさん、シャーロットさん。初めは事故現場へ向かったのですが、お二人は砦へ上がられたと聞き、慌てて砦へ登れば現場へ戻られたと聞かされ……。舞い戻ってみればもうお姿はなく、いやはや、捕まえるのに少々骨が折れましたよ」
ルミエールがはははと穏やかな顔で笑いながら、挨拶の手を二人に差し出した。少しウェーブがかった黄色みのある長めのホワイトヘアーをハーフアップにし、白いレースアップシャツの胸元は少し広めに開けていてラフな色気が漏れている。その上に深みのある葡萄酒色の上着を着て、肩には美しい鳥の羽根をあしらった軽やかなハーフマントを羽織っていた。左の前腕には、弓の弦が弾けたときに肌を守るための精緻な彫刻が施されたアームガードを嵌め、右手にはしなやかな緑色の鹿革手袋を着用している。流行の品も取り入れながら、目にも華やかな品々を身に着けている様は彼がおしゃれへの関心が高いことを感じさせた。
しかし細い腰に吊られた、飾りのない武骨な灰色の短剣がこれまでの華やかな印象を一変させる。手入れの行き届いた鋼の冷たい光沢は、柄の部分がうっすらと衣服の明るい赤みを帯びており、彼がそれを装飾ではなく、いつでも指先一つで引き抜ける『実戦の道具』として帯びていることを無言で物語っていた。また全体的にスマートな体型で貴族の優男のように見えるが、とんでもない。首から下は、引き絞られた肩幅と恐ろしいほどに厚い広背筋が、上質な衣服を内側から押し上げており、まさに鍛え上げられた一級の弓兵そのものだった。二人と握手を交わすと、ルミエールが台の上に乗せられた少年をじっと悲しそうに見つめる。そして、
「みんな黙祷しよう」
そう言い、綺麗にカールした長いまつ毛に縁どられた目を伏せ、訓練生たちとともに遺体へ静かに黙祷を捧げた。本人にその気はないだろうが、高価な絵画の一枚のように映える。ややして、目を開けたルミエールは白い歯を光らせて二人ににっこりと笑いかけた。この輝く笑顔を見るだけで、世のご婦人方はのぼせ上ってしまうだろう。シャーロットも食らったのか「眩しい…」とヘルメットの中から小声が聞こえてくる。しかし、ただ文句を言っているような不満げな口調なので笑顔に魅了されたわけではないらしい。
「さて、何からお話ししましょうか」
「まずは、演習時の様子について知りたいです。何か不審な点はありませんでしたか?」
ルイの質問に「変わった様子か...。何かあったかな?」とルミエールが首を捻る。
「いえ、いたって普通の演習でしたね。いつも通り、数メートル離れた森の中に置いた的へ向かって矢を飛ばしていました。私は皆の後ろを歩きながら、その結果を見て回って指導しておりましたね。サンジェルくんが落ちたのは、ちょうど他の生徒の弓の成果を見ているときでした」
そこでルミエールが背後の生徒たちを振り返る。
「君たちは、なにか見たかな?」
「は、はい。何を見たか、ですか...」
生徒たちがルミエールの問いにしどろもどろになる。質問すらまともに理解できないのだろうか。先ほど現場を守っていた生徒とは大違いだ。私の教育が間違っていたのだろうか、とバウアーの嘆きが聞こえるようだった。誰が言う?というように互い互いに目くばせを交わしたのち、意を決した様子で一人の生徒がおずおずと前に進み出てくる。
「あのとき、サンジェルさまは遠くにある的を見るために手すりから身を乗り出していました。その直後、一瞬だけサンジェル様の身体が、後ろにのけ反ったんです。ですが次の瞬間には、まるで飛び上がったかのように宙に浮いて……そのまま前方にのめり込むように反転しながら、真っ逆さまに落ちていきました」




