ープロローグー
学校終わり、ヨハンとヨンスの兄弟は街の郊外にある『幽霊屋敷』に忍び込んでいた。今日は朝から天気が悪く、灰色の雲が重く垂れこめた空模様と相まって、古びた屋敷はより不気味な雰囲気を醸し出している。元は美しかったであろうレンガ造りの外壁には蔦がはびこり、長年雨風に晒された影響か暗く煤けている。主を失った庭には雑草が生い茂り、中央に鎮座する大きな円形噴水では、左右に佇む女神の像がその惨状を嘆くように、両目から雨垂れの黒い涙を流していた。
「ヨハン兄ちゃん、怖いよ…」
ヨンスが子ども特有の丸っこい手で前を歩くヨハンの背中を掴む。その目はこわごわと陰鬱な空気の漂う屋敷内を見回していた。
「大丈夫だ、俺がついてる。それに、もうマルルたちに虐められたくないだろ?」
マルルは、ヨハンたちの通う国立の貧民層向けの無料学校のボスである体の大きな男の子だ。最高学年の6年生でヨハンと同い年、ヨンスは3年生だった。教師も手を付けられないほどの乱暴者で、クラスメイトを蹴ったり殴ったり、持ち物を脅して奪い取ったりする生粋のいじめっ子だ。何人もの子分を従え、我が物顔で学校を支配している。
先生たちも魔法で対抗するものの、もともとの巨体をさらに『肉体強化』魔法でパワーアップさせたマルルは力が強く、逆に投げ飛ばされてしまうほどだった。誰も彼に逆らえなかった。しかし、みんな知っていた。この屋敷の近くに住むマルルが登下校中に屋敷の前を青い顔をしながらそそくさと通り抜けていくのを。いつも「貴族様の屋敷の近くに住んでるなんて、俺様の家ってすげぇぜ!」と強がっているマルルが、屋敷の窓から見える女性の肖像画を怖がっていることを。そこで、ヨハンたちはその肖像画を盗んでマルルの家に放り込んでやろうと計画を立てたのだった。
「マルルのやつ、今に見ていろ」
ヨハンは拳をぎゅっと固く握り、決意を露にした。その顔には鼻血の乾いた跡があり、背中には茶色い靴の跡が付いている。今日の昼休み。ヨンスが中庭でマルルの子分たちにボールを当てられていじめられていた。ヨハンが怒って子分のひとりを殴ったところ、驚いた子分たちがマルルに泣きつき、ヨハンはマルルにしこたま殴られたのだった。
「お兄ちゃん、ごめんね…」
ヨンスが悲しそうに俯き、ぎゅっとヨハンの服の裾を握る。その目じりには涙が溜まり、子分にからまれていた自分を責める気持ちが表れていた。
「お前はなにも悪くない!気にすんな。兄ちゃんは平気だ」
ヨハンはそっと弟の頭を優しく一撫ですると、
「よしっ」
と気合を入れ直した。二人で陰気な中庭を通り抜け、窓のひとつに手をかける。鍵はかかっておらず、窓は意外なほどあっさり上に持ち上がった。
「行くぞ」
そこに二人で中へと体を滑りこませる。二人が降り立った先は、玄関から見て右手側にある廊下だった。下に敷かれた絨毯には、落ちた時に体を柔らかく受け止めるほど厚く埃が積もっている。
「げほっ、げほっ」
「げぇ、埃臭い」
人が住まなくなって久しいのだろう。少し前までは昔このあたりで盛んだった鉄鉱石業で財をなした一族が住んでいた。彼らが他所へ移り住んだあと、発展している街が近くにありながら、少し周りから離れた静かな場所で暮らせる立地が人気で、貴族や豪商が次々と住んだ。しかし、このころから以前にはなかった幽霊の噂が出てくるようになった。「夜中に赤ん坊の泣き声がする」、「悪魔が誘惑して屋敷の主人を憑り殺してしまった」、「原因不明でネズミが大量死していた」などの噂が絶えず、ついには幻覚を訴えて自殺する人まで出てしまった。それからは買い手もつかず、放棄された幽霊屋敷として街をいつも寂しそうに見下ろしている。
「よし!絵画の近くに出れた。このまま進むぞ」
「う、うん...」
二人は持参したランプに火を灯すと、ゆっくりと左右を警戒しながら歩みを進めた。普段ならば大きく切り取られた窓から日の光が十分以上に入ってきて暑いくらいだろうが、今日はあいにくの天気模様で、さらに夕方ということもありランプの明かりで少し先が見えるくらいだ。
屋敷の構造は、奇妙なほど几帳面だった。右手に窓、左手には等間隔で部屋が並んでいる。ダイニングや応接室など用途が違うはずの部屋が、まるで同じ型に嵌め込んだかのように、すべて等しい大きさに統一されているのだ。その整然とした並びが、かえって不気味だった。二人が閉まっている扉を一つずつ慎重に開けて、部屋の中を確認しながら進んでいると、ある部屋の前を通り過ぎたとき、中から「ぎぎぎっ」と木が軋むような音が聞こえた。
「うわっ」
「大丈夫だ、ただ家具が軋んだだけだろ」
開けた扉からヨハンが中を覗くと、そこには部屋の中央に十数人が座れそうな巨大なダイニングテーブルが置かれ、上には埃の積もった何十本ものキャンドルがそのままにしてあった。天井からは巨大なクリスタル・シャンデリアが吊るされ、いまは跳ね返す光もなく代わりに埃を装飾品にしている。壁際には食器棚があり、どうやらここはダイニングルームらしい。部屋の奥には大理石の豪華な暖炉が、そして壁際には…
「あった、あれだ!」
目的の女性の肖像画とともに数十人分もの肖像画が壁一面に飾られていた。隣の額縁との隙間は、わずか数センチ。床から高い天井の際まで、壁面を埋め尽くすように無数の絵画がびっしりと敷き詰められていた。男女入り混じっているが、どの人物も威厳のある見た目をしており、絵にも関わらずこちらに干渉してきそうな迫力を感じる。今にもこちらに目を向けて喋りかけてきそうだ。そのなかで、マルルが怖がっていた女性の肖像画はひとりだけ慈愛に満ちた優し気な笑みを浮かべており、異彩を放っていた。しかし、この威圧感のある並びに入っていると、その笑みにどこか裏を感じてしまう。ヨハンが肖像画に近づこうとすると、その足が不意にぐいっと止まった。後ろを振り返ると、ヨンスが服の裾を強く引っ張っている。
「近づきたくないよ~」
もうヨンスは大泣きしていた。これだけの数の肖像画に取り囲まれているのが恐怖だったのだろう。ヨハンはゆっくりとヨンスの手を離させると、
「お兄ちゃんが行ってくる。すぐ戻ってくるから、待っててな」
と言い、その場にヨンスを残して肖像画に近づいた。肖像画に手を伸ばすため、ダイニングチェアを一台引きずる。それは古い鉄製の椅子で、子供の力では持ち上がらないほどズシリと重かった。部屋の上部にぐるりと取り付けられた頑丈な木製のレールから垂らされたワイヤーが絵画の裏の金具につながっていた。額縁の裏側にある輪っか状の金具から、ワイヤーの先端のフックをカチャッと肖像画を取り外す。
「やったぞ!ヨンス、見ろよ!」
思ったより簡単に画を手に入れることができ、ヨハンが喜色満面で後ろへ声をかけるも返事がない。
「ヨンス…?」
振り返ると、そこに居たはずのヨンスの姿がない。跡形もなくその場から消えていた。――ざわり、と肌を刺すような強烈な悪寒がヨハンを襲った。心臓が嫌な音を立てて波打ち、ただ事ではない恐怖が脳を支配する。
「ヨンス!ヨンス!」
ヨハンは慌てて絵画を小脇に抱えて部屋を飛び出すと、部屋を出たすぐ先にヨンスがうずくまって座っていた。
「ヨンス!どうしたんだよ?」
ヨハンが心配そうにのぞき込むと、
「お兄ちゃん、あれ…」
ヨンスが震える手でヨハンが飛び出してきた部屋を指さす。指の先には、なにか赤い光がぱちぱちと爆ぜて光っている。そして――
ガタガタガタガタッ!
「ひっ」
ガタガタガタガタッ!
今しがた肖像画を盗んだ大広間の家具という家具が、まるで招かれざる客である二人を威嚇するように一斉にガタガタガタガタと激しく揺れ始めた!
「「ぎゃーーーーーーー!」」
ヨハンはヨンスの手を掴むと、死ぬ物狂いで屋敷内を逃げ始めた。一つ一つが大きい部屋の横を走り抜けながら、入ってきた窓を目指す。行きにはちゃんと中を確認したあとに閉めたはずの部屋の扉が、なぜか今はすべて開いていた。
「怖い怖い怖い怖い」
「お兄ちゃぁあああん!」
泣いているヨンスを引きずり、どうにか入ってきた窓を見つけ、ほぼ放り投げるようにしてヨンスを開いた隙間から外側へ押し込む。そして自身ももつれる足をばたつかせながら窓に滑り込み、最後に窓の下に立てかけていた肖像画を回収した。
「うわぁあああああああああ!」
「うおおおおおおおおおおお!」
二人でめちゃくちゃな悲鳴を上げながら、雑草の生い茂る庭をがむしゃらに走り抜け、這い入ってきた門の崩れた隙間を滑り込むようにくぐり抜ける。背後に屋敷を置き去りにしたまま、二人は街へ続く道を無我夢中で走り続けた。
「はぁ、はぁ、はぁ。ヨンス、無事か?」
「う、うん。でも、お兄ちゃん...」
ヨンスのズボンを見ると、びっしょりと濡れている。これは帰ったらお母さんに怒られること間違いなしだ。ちょっとしかめっ面になりながら、ヨンスが乱れた息を整える。
「まぁ、いい。無事に肖像画を手に入れたんだ。これでマルルもしばらく大人しくなるだろう」
「うん!お兄ちゃ・・・」
そこでヨンスの言葉が止まった。ヨハンの方を見て、目を大きく見開き、顎をあんぐりと開けて、
「あ、あぁ、あ・・・」
と喉の奥から絞り出すような言葉にならない声を発する。やがて、その顔がみるみる恐怖で染まり、
「うわぁあああああああああ!」
ヨハンの方を見て悲鳴をあげ、めちゃくちゃに走って逃げはじめた。
「おい、ヨンス!なんだよ!」
何かいるのだろうか、とヨハンが恐々と後ろを振り向いてみるが何もいない。
「なんだよ、驚かすなよよ…」
溜息をついて下を見ると、ふと絵画の女性と目が合った。
「・・・え?」
先ほどまで正面を向いていたはずの女性がこちらをじっと見ている。その表情からは慈愛に満ちた微笑みは消え、目を吊り上げた憤怒の表情で白目をむき出しにしながらヨンスの方を睨みつけている。
「ぎゃーーーーーーー!」
ヨハンは叫ぶとその場に絵画を放り出し、走って逃げていった。あとには、道の脇の草むらのなかに仰向けに落ちた憤怒の表情の女性の絵画だけが残された。




