神妃
【第47話・最終話】
(卑猥な出来心……)
そのパワーワードに、咲千の頭は真っ白になった。
「ほう多聞、いい度胸をしているな。断りもなしに俺の天女の胸を揉んだと」
帝釈天は背に真っ赤な炎を揺らめかせ、立ち上がる。
阿修羅王に立ち向かったときの比ではないほど、その目は怒りくるっていた。
(ラグナロクが起こる……!)
それこそ、忉利天の全土を焼き尽くしてしまいそうな勢いだ。
咲千は慌てて取りすがる。
「ももももんだとかっ、意味が全然違いますよっ?」
「揉んだもさわったも同じだ」
「さわったと言っても、ぶつかっただけです! 本当にちょこっと!」
「馬鹿を言え。ぶつかっただけで『柔らかで甘美な感覚』などするものか」
「ギエー! やめてください、そのなまなましい表現っ」
「おおかた両手で鷲摑みにして弾力を確かめたのに違いない」
「それしたの、帝釈天さまじゃないですか!!」
咲千の絶叫に、二柱の神はしん……と黙る。
ややあって、多聞天がかすれた声で問う。
「……主、誠でございますか?」
「いや、あれは事故だ」
「でしたら、わたしのも事故です」
「そうだな、事故だった」
「ええ、完全に事故でした」
「事故に決定。以上」
一応解決……したらしい。
さわられ損な咲千は咲千でもやっとするが、あえて突っ込む勇気はなかった。
「ではわたしはこれで」
多聞天は去り際がうまい。
話は終わったとばかり、さらりと姿を消してしまう。
咲千を囮に阿修羅城へ乗り込んだ件は、有耶無耶のうちに不問となった。
やがて、空に細い紫雲がたなびきはじめる。
「雨、降りそうですね」
「ああ」
しめやかで甘い香りが鼻孔をかすめた。
霧のごとく優しい雨が降ってくる。
大気が黄金色に染められると、付近の潰された花々が姿勢を正し、蕾を着けて、ぷっくりと膨らませた。
大地では、落ちた種から若芽が生まれ、ぐんと背を伸ばす。新たな生命の息吹がここかしこで始まった。
「この恵みを、阿修羅界へ届けないといけませんね」
「お前が望むならそうしよう」
帝釈天の手が伸びてきて、咲千の肩に触れた。
いたわるように、壊れ物を包むように、優しく抱き寄せる。
「シャチ、提案があるのだが」
自信に満ちた普段の姿に似つかわしくない、繊細な戸惑いを含んだ声がする。
不思議に思って彼を見ようとするが、ぐっと引き寄せられて逞しい彼の肩先に顔を押しつけられてしまった。
その表情を見られたくないとばかりに。
「この先お前は阿修羅界と天界との架け橋になると言った。それには時間がかかる」
「そうですね、覚悟します」
「根性論ひとつでどうにかなるものではないぞ。気が遠くなるほどの長い時がかかるだろう。おそらく、天女の寿命では時間が足りぬ」
はっとして目を見開いた。
そこへ、帝釈天の伺うような優しい低い声が重なる。
「だから、俺の神妃になれ」
「神妃?」
「そうだ。神の妃、つまり俺と一蓮托生となる。そうすれば同じだけの時間を生きられる」
(帝釈天さまと、一蓮托生……!? 一緒に生きられる? そんなことができるの……?)
胸が高鳴る。
甘露の雨よりも甘く、咲千の心を溶かした。
「答えは『はい』か『喜んで』かの二択だ」
「……どっちも同じではありませんか?」
「社畜はそういうものだと聞いたぞ」
「っどこでそんな現代知識を手に入れたんですか!?」
「俺は神だ。なんでも知っている」
「恐れ入りました……!」
肩の拘束が緩み、咲千は顔を上げる。
帝釈天はいつものごとく偉そうにしながらも、その目元をほのかに赤く染めていた。
(そんな顔、されたら……)
咲千にもすぐ伝播してしまう。
胸の奥がむずむずして、お腹の深いところがそわそわして、頭がふわふわして……変な気分だった。
でも、悪くない。
「シャチ、答えを」
大きな手が伸びてくる。
咲千はその手を迷わず握り返した。
「はい、喜んで」
もう日が暮れる。
甘くて甘くて甘い雨は、唇を潤し、静かに止んだ。
「今夜は戦勝の祝宴に加え、神妃誕生の祝杯を挙げるぞ」
「は!? ちょっと待ってください。さすがに今日の今日は早すぎませんか?」
いきなり結婚とか。
交際0日婚ではないか。
「それはスピード離婚するやつですよ!? まずはおつき合いから……」
「なにを言っている。戦とは先手必勝。ぐずぐずしていれば持国や多聞に横から攫われかねん」
と、自分で話題に上げておきながら、帝釈天は再びその目に怒りを再燃させた。
「あいつら、やはり一度締め上げねば気が済まぬ」
「ちょっともう! 怒りすぎですってば」
「我が怒りを鎮める方法が一つだけあるぞ」
「なんですか?」
ほのかに情欲を宿した瞳がこちらへ降り注ぐ。
咲千はごくりと唾をのみこんだ。
「未来の神妃の祝福がほしい」
甘い香りが近づいてくる。
そっと肩を抱かれ、引き寄せられた。顎に据えられた手が咲千を上向かせる。
「……シャチ」
とびきり優しい声で呼ばれたら、なんの抵抗もできなくなった。
ゆるゆると瞳を閉じる。
待ち焦がれるほどの時間をかけて……吐息が唇にふれ――重なった。
爽やかな風が吹いて、咲千の肩にかけられた薄桃色の羽衣をなびかせる。
雨上がりの黄金色の空気の中、細い虹が天にかかった。
天女の羽衣はゆらゆらと裾をひるがえらせて、虹と重なる。
地上の花たちは、競うように花弁を風に乗せ、大気を極彩色に彩った。
どこからともなく流麗な楽の音が聞こえてくる。
艶やかな花の芳香と楽の音と、黄金色の大気が相まって――、天界というものは誠に光彩陸離たる世界だった。
‐完‐
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