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多聞天

【第38話】


 どれくらいの時が経ったのか――、


「目を開けて下さい」


 耳もとで囁かれて、咲千(さち)はまぶたを開いた。

 視界めいっぱいに、美麗な毘毘(びび)の顔が飛び込んでくる。


「あ……」

「しー、静かに」


 かすれた低い声で、毘毘が制してくる。


「シャチさん、結局あなたを守り切れなかったどころか、巻き込んでしまいました。申し訳ありません」

「いえ、巻き込んだのはわたしのほうで……」


 起き上がろうと腹に力をこめると、全然身体が動かないのに気づいた。

 琴に縛られていた羽衣はなく、どうやら毘毘が解いてくれたようだが、ひどい倦怠感が身体にはびこっている。

 じっとりと湿った冷たい石の床からも、体力が奪われていくようだ。


「辛いでしょう、今動けるようにします」


 毘毘は大きな手を咲千の額にかざしてきた。平坦な声でなにかを唱える。


「バイシラマンダヤ」

「……っ」


 清らかな風がふわっと立ち、体を包んだ。

 肩の力がするりと抜けて、呼吸が楽になる。

 風が身体を通り抜けたあとは、得も言われぬ清涼感が残った。


(なんだか覚えがある……。前に、持国天(じこくてん)さまに真言を唱えられたときと似てるかも)


 軽くなった手を突っ張ると、身体が動かせるのに気づいた。

 よっこらせと起き上がると、少し離れた床に四人の天女たちが伏しているのを発見する。一様に青ざめて生気を失っている。

 すっと肝が冷えた。


「柚有(ゆう)さまっ、ほかにも……!」

「静かに。まだ息はあります」


 毘毘はこんな状況でも不思議なほど冷静だった。


「とはいえ、あまり時間がないので手短に説明します」


 あいだに質問を挟んだりしないようにとの前置きをされたらしい。咲千は黙ってうなずく。


「ここは阿修羅(あしゅら)族の城です。あの女が道を開き、わたしたちを連れてきました。阿修羅族とは、忉利天(とうりてん)の北へ悪蛇(ヴリトラ)を連れて攻めてくる敵で、普段は主が一人で立ち向かってきました。けれども今回驚いたことに、天へ間諜を送り込んで人質を取る手法を新たに取ったようです」


 間諜とは、琴(きん)のことだろう。

 咲千や柚有、毘毘は人質にされたのだった。


「あの場で彼女を倒そうかとも迷ったのですが、もしかすると新たな契機かもしれないと考えました」

(契機って、チャンスってこと?)

「負担をかけてしまう天女たちには申し訳ありませんが、逆に利用して内部へ乗り込ませてもらいました。わたしはこれから城内をかく乱しに行きます」


 言うなり、立ち上がった毘毘を見て、さすがに止める。


「待ってください、毘毘さんは大丈夫なんですか?」

「問題ありません。おそらく阿修羅の主戦力は現在、忉利天(とうりてん)の北で主と交戦中。城の守りが手薄な今が千載一遇の機会ですから」

「毘毘さんあなた……天女じゃないんですね?」


 これまで節々でよぎった違和感や特別感が、はっきりと形を持ってくる。

 彼女はこくりとうなずいた。


「わたしは北天を司る多聞天(たもんてん)、またの名を毘沙門天(びしゃもんてん)」

「それって……四天王さま?」

「はい」

(しかも、毘沙門天って知ってる。一番有名な神サマじゃないの!?)


 咲千でもどこかで聞いたことがある。

 たしかものすごく強い戦神だ。

 ただ者ではないと思ってはいたが、さすがに驚きのあまり茫然としてしまう。


「四天王の最強神は、女性だったんですね……!」


 毘毘……いや多聞天は、すっと視線を逸らす。

 どこがばつが悪そうに瞳を泳がせていた。


 彼女は横を向いたまま墨染の羽衣を外す。そして、上襦(じょうじゅ)を肩から滑らせ、長い袖を脱ぎ捨てた。腕に飾っていた銀の装飾品をじゃらりと落とすと、上腕を剥きだした薄い内着一枚になる。


 その首筋から肩、腕にかけてのラインは、がっしりとしており、細いと思っていた背中も、薄絹を通して盛り上がる筋肉が美しく映る。


 美貌の天女毘毘はあっという間に姿を消してしまった。

 そこにいるのは剛健な輝くばかりの戦神であった。


 多聞天は咲千を振り返らず、かすれ声で告げる。


「――――男です」

(ですよね……)


 こうまでまざまざと見せつけられて、疑う余地はなかった。

 密偵のごとき活動中は、天女の装いをしていたというだけなのだろう。


「南天を離れる前に、増長(ぞうじょう)につなぎを取りました。追ってここへやってくるはずです。あなたたちはここで、それまで耐えていてください」

「……わかりました」

「あと、これを」


 帝釈天の象の首飾りを渡される。

 そういえば、多聞天はこれを取りに行ってくれたのだった。

 今度こそしっかりと受け取り、胸に飾る。

 多聞天は、さっと身を翻して部屋を出ていく。つい首飾りをつけることに集中していた咲千は、彼を見送れなかった。

 彼が去ったあとには、固く重そうな石の扉がぽかんと開いている。


(あんなの、どうやって開けたんだろう……)


 ひょっとしたら、ものすごい怪力なのかもしれない。あんなに美人なのにすごい。


「わたしたちはここで待機、か」


 咲千はゆるゆると立ち上がり、もう一度部屋を見渡す。

 石づくりの冷たい部屋だった。

 倒れている天女は柚有を含めて四人。全員身を寄せ合うようにして仰向けに寝かされている。


(大丈夫なのかな……)


 心配になって、柚有の頬に触れてみた。


(すごく冷たい)


 かろうじて息はあるものの、顔色は紙のごとく白い。


(さっきよりも悪くなっていないかな)


 なぜかこの手の穢れに強いらしい咲千は、多聞天の真言を授かったせいも加わって大丈夫なのだが、天女たちの体調が気がかりだ。


(せめて身体をあたためるなにかがあったらいいんだけど)


 間に合わせに多聞天が脱ぎ捨てていった上着と羽衣をかけてみるが、焼け石に水な感じがする。

 天女の命は本当に儚い。

 琴(きん)も以前言っていた。少しの穢れで命を失ってしまうのだと。


(そういえば、さっき琴さんがめちゃめちゃ怒っていたのって、なんだったんだろう)


 咲千が彼女を騙したと憤っていた。

 部屋に罠が仕掛けられていたとかなんとか。


(多聞天さまがやったのかな?)


 流れ的に、そうとしか思えなかった。


(それにしても、柚有さまたちが心配だ)


 せめて咲千の元気を分けられないだろうか。多聞天が真言で咲千を楽にしてくれたように。


(聞いてみようか)


 今すぐ追いかければ、まだ呼び止められるかもしれない。


「多聞天さま!」


 咲千は小走りに部屋を飛び出した。


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★新連載はじめました★
『見た目は聖女、中身が悪女のオルテンシア』

↓あさたねこの完結小説です↓
『後宮恋恋』

↓短編小説はこちら↓
『聖女のわたくしと婚約破棄して妹と結婚する? かまいませんが、国の命運が尽きませんか?』

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