人質
【第37話】
一面の花畑には、ぽつぽつと天女の姿があった。
少し遠くには、柚有もいる。
花畑に身を沈めたり、花の香りを嗅いだり、優しく花弁にふれて愛でていたりしていて、みなそれぞれゆったりと過ごしている。
とても穏やかな昼下がりだ。
そんな中、咲千の心は嵐のごとく乱れていた。
いろいろありすぎて、頭がぐちゃぐちゃだ。
帝釈天の咲千に対する態度に浮かれたり、落ち込んだり。同室の天女が倒れたと思えば、犯人から目をつけられているのは咲千だと聞かされて。
さらに、「帝釈天に利用されていた」と言われた次には、「慈しまれていた」とか言われて。
(なにがなんだか……)
英語とフランス語とエスペラント語で同時に話しかけられたような、大混乱状態に陥っていた。
とにかく、毘毘の帰りを待つしかなさそうだ。
戻ってきたら、もう少し詳しく話が聞けるかもしれない。
しばらくして、一人の天女が風に乗ってこちらへやってきた。
のんびりした天女らしからぬ、ずいぶんな勢いで近づいてくる。
「あれは……琴さん!?」
はっとしたところで、険しい張り声が響く。
「咲千! わたくしを騙したわね!」
辺りにいた数名の天女は、いっせいに天を見上げた。
視線の先にいた琴は、髪を振り乱し、まなじりを吊り上げ、真っ赤な唇を歪ませ、鬼のような形相をしていた。
「ど、どうしたんですか?」
いきなりわけのわからない誹りを受けてびっくりすると共に、彼女の尋常ではない怒りを真正面から受け取り、身体が硬直する。
琴は自分の羽衣を外す。そしてそれを、咲千の腕ごと胴へ巻きつけてきた。
「え? きゃあっ」
バランスを崩して地面に落ちかけたところを、ぐんと羽衣を引くことで琴に起こされる。
彼女は胸倉を摑む勢いで言いつのった。
「友達だと思ったのに! 外道天から捨てられたってのは、わたくしをはめる小芝居だったのね!?」
「なにを言って……?」
「部屋に罠を仕掛けるなんてあんまりじゃない」
「罠? なんのこと?」
「この期に及んでしらばっくれるなんて頭にきたわ! もう絶対許さない。あなたを人質として阿修羅界に連れていくわ!」
(阿修羅!? まさか)
毘毘の言っていた『魔の者』とは、琴のことだったのか。
琴は羽衣でがんじがらめにした咲千を、どんと突き飛ばした。
花畑に受け止められた身体は、花をつぶしてごろごろと転がる。
「きゃああっ」
付近にいた天女たちが、口々に叫びを上げた。
琴はそれを鋭く一瞥して黙らせ、左手を天へ突き上げた。
「外道天が不在の今なら! 阿修羅界へつなげて!」
彼女の叫びに呼応して、凄まじい爆発音が鳴り響いた。
空が張り裂ける。
突如として大きな黒い渦が現れ、そこから暗雲が溢れてきた。
空は見る間に闇で覆われる。
「なに……これ……」
おぞましい気配が、闇からじわじわと染み出てくる。
「咲千さまっ」
柚有が地面に転がされたままの咲千を心配して、こちらへ手を伸ばしかけた。
だが、重力に引き戻されるように、へなへなと地に伏してしまう。
(天女は穢れに弱いから)
まさにこの闇は、穢れそのものだった。
(これが、魔の気配……?)
まさに持国天が「臭う」と言っていたものだ。
花びらの掃除をしていたとき。それから、善見城の窓辺にたたずんでいたとき。
どちらも直前まで、咲千は琴とともに過ごしていた。
(琴さんが、魔の者だったんだ)
だとしたら、天女たちが危ない。
「柚有さま、みんな、逃げて!」
だが、琴は鼻で笑う。
「誰も逃がさないわよ。人質は多ければ多いほどいいの」
魔の気配が、徐々に包囲を縮めて近づいてくる。
蜘蛛の巣さながら、天女たちは蝶のごとくみな囚われてしまう。
咲千はなけなしの強がりで琴をにらみつけた。
「わたしたちをどうするつもり」
「そんなの、教えてやる義理はない。黙っててよ。もうまもなく、繋がる」
天の裂け目の中央に、真っ赤にきらめく二つの光が浮かび上がった。
珊瑚のように艶めかしく、血のように澱んだ光が、双つの目のごとくぎらついて瞬く。
「阿修羅王さま、すぐに帰ります」
夢見るような甘い声で琴がそこへ話しかける。
すでに柚有やほかの天女は、地に伏してぐったりと目を閉じていた。
咲千の身体も、さっきからものすごい寒気に襲われてがくがくと震える。
心臓が激しく高鳴り、徐々に呼吸が苦しくなってきた。
「シャチさん!」
と、そこへ鋭い声が斬り込んできた。
「なに、まだ正気を保っていられる天女がいたの?」
琴が驚いたように振り返る。
現れたのは、墨染めの衣をまとった毘毘だった。咲千に向かって駆けてくるなり、そのままどさっと花畑に倒れ込む。
「毘毘さんっ、しっかりして!?」
驚いたことに、目を閉じてしまっている。
魔の気配に当てられて、気を失ったようだ。
「なあんだ、びっくりさせないでよ」
琴は急速に興味を失い、再び天に光る赤い目に視線を向ける。
「毘毘さん……!」
縛られて両手が動かせないので、彼女を介抱できないのが歯がゆい。
せめて息はあるのか確かめようと、身体でにじり寄って顔を近づける。
と、低い小さな声がした。
「目を閉じ、あなたも倒れたふりを」
この非常事態の中で驚くほど冷静だった。
毘毘は倒れたのではなく、装っているのだ。
「決してわたしから離れないでください」
毘毘は重なり合った袖の下で、強く手を握ってくる。
「っ」
硬く大きな手の感触に、心臓まで一緒に摑まれた心地がして、動揺した。
けれども、今は言われた通りにしなくては。
ばくばくと跳ねる心臓を必死になだめ、目を閉じる。
身体の力をなるべく抜こうと試みるが、この緊迫した状況ではなかなか難しかった。
緊張は増すばかりで、頭の血管が切れそうだ。
ぎゅっとつむったまぶたの向こうでなにが起こっているのかわからないが、じわじわと侵食してくる魔の気配に、恐怖もつのる。
やがて、緊張が過ぎたのか、頭が朦朧としてきた。
固く結ばれた毘毘の手に励まされながらも、咲千の意識は遠ざかっていった。




